愛のキセキ
平成26年12月16日(火)~平成27年2月15日(日)
大切な人のすがたをとどめる
平成23年の東北大震災の後、瓦礫(がれき)と泥土の中から膨大な数の写真を回収して洗浄し、被災者のもとへ届けるボランティア活動が広く行われました。身近で大切な人のすがたを写した写真は、誰にとっても失いがたいものでしょう。祖父母や親の若かりし頃のすがた、物心つく前の幼い自分のすがたを写した写真は、人を、家族の歴史や自らの来し方(かた)への想いへと誘います。
図版②は、モニュメントのようなものを背にした5人の女性の写真です。昭和11(1936)年の博多筑港博覧会の際に、煙草を扱う専売局に勤める女性たちを撮影したものであることがわかっています。当時の働く女性の服装や髪型を伝える資料としても貴重ですが、見る人の印象に強く残るのは、今ほどレンズを向けられる機会のなかった女性たちが顔にたたえる表情かもしれません。
福岡・博多の日曜カメラマン
身近な人のすがたを写真に撮ることは現在ではきわめて手軽になりましたが、かつてはちがいました。多くの人は、特別な機会に、写真館に出向いて、あるいはカメラマンを呼んで、写真を撮ってもらいました。自分で写真を撮ろうにも、機材は大変高価で、鮮明な画像を撮影するのも難しく、フィルムの現像や焼き付けも自分でするものでした。しかし、博物館には、昭和時代初期のカメラが複数残っています。多くは職業上の道具ではありません。ほかに仕事を持つ人が、自分の「道楽」の品として購入したものです。家計を圧迫しかねない値の張る買い物で、手入れにもこだわりながら使っていたであろう古いカメラや8ミリカメラからは、元の持ち主の、目に映るものをそのまま残せる技術に対する興奮と、変わりゆく「今」をとどめておきたいという情熱が伝わってきます。
大切なもののかたちを伝える
写真や映像の撮影技術が発達する以前は、大切なもののかたちをそのまま後世に伝えるために、人びとは筆を動かし絵図を描いていました。図版④は青柳種信(あおやぎたねのぶ)という江戸時代後期の福岡藩の国学者によるものです。彼は、藩の命令で地誌の編さんに携わっていたこともあり、領内に伝わっていた多くの文化財の詳細な絵図を大量に制作しました。
明治20年代、太宰府の地に「鎮西博物館」を建てようという運動がおこりました。図版⑤の「鎮西博物館歴史参考之備品」は、その運動の中心人物であった江藤正澄(えとうまさずみ)という人が、建設運動の賛同者を募るためにつくった刷(す)り物です。博物館の展示品にしようと集めた古い器物の精巧な図を載せたもので、現在の大型展覧会や新しいミュージアム設立の広報物にも負けない視覚的なインパクトがあります。江藤の博物館建設にかけていた想いをよく伝えています。(杉山未菜子)