平成27年2月3日(火)~平成27年4月5日(日)
門とは何でしょうか。岩波書店の『広辞苑』では「家の外構えに設けた出入口」と説明されています。しかし、家だけではなく、ムラやマチにも門がありました。そこで、門は「領域あるいは敷地の外構え(柵や築地(ついじ)など)に設けた出入口」と規定することができるでしょう。同じ出入口でも建物の一部である玄関は門とはいいません。
弥生時代の環濠集落(かんごうしゅうらく)には門がありました。環濠によって外部と明確に区画されていることから、この門は日本最初の門といえるでしょう。その後、宮殿や役所、寺院や神社、城、邸宅などに設けた門は、防御目的とともに身分や格式を象徴するものとなり、時には記念碑的な門がつくられることもありました。
この展覧会では、古代、中世、近世、近代、現代の各時代を代表する福岡の門を紹介し、門の役割と歴史を探っていきます。
古代 鴻臚北館(こうろほっかん)の門楼(もんろう) <役所の門>
1 鴻臚北館の門楼(想像CG) |
古代の迎賓館(げいひんかん)・貿易商館であった鴻臚館(こうろかん)(7世紀後半~11世紀中葉、国史跡)に関する記録が極めて少ないなか、この漢詩は博多湾岸にそびえ立つ北館の門楼、楼上での茶会の宴(うたげ)が記された貴重な史料です。門にはこんな使い方もあったのです。
中世 都市博多の門 <マチの門>
この漢詩の詞書には「朴加大(はかた)(博多)は城なく、岐路(きろ)は皆虚(みなうつ)ろなり。夜々賊起こり、人を殺せども追捕(ついぶ)の者なし。今予(よ)の来たるや、探提(たんだい)(題)我が為に此の寇(こう)を懼(おそ)れ、代官伊藤殿をして、里巷(りこう)の岐路に皆(みな)門を作らしめ、夜となれば則ちこれを閉(と)ざす(後略)」と記しています。当時の博多のマチのようすが記述され、九州探題渋川(しぶかわ)義俊(よしとし)は朝鮮使節のために、夜盗の横行を防ぐ目的で、新たに門を作ったことが知られます。この門は、「里巷の岐路に皆門を作らしめ」とあり、辻々(里巷の岐路)のすべてに設けられた木戸の門と考えられます。また、この木戸の門は夜間には閉じられていたこともわかります。