平成27年4月7日(火)~6月14日(日)
魅前立六十二間筋兜・紺糸威二枚胴具足(No.12) |
〈福岡藩士の実戦的な当世具足〉
福岡藩は慶長(けいちょう)5(1600)年関ヶ原(せきがはら)の戦いで勝利した徳川家康(とくがわいえやす)が、戦功のあった黒田長政に筑前のほぼ一国を与えたことから始まります。その家臣たちは長政の父・如水に若いころから仕えた人々も多く、のちに黒田家では彼らの中から特に武功のある家を選んで黒田二十四騎(くろだにじゅうよんき)として顕彰しています。また長政の子で二代藩主・忠之(ただゆき)の時代には、天草(あまくさ)・島原(しまばら)の一揆鎮圧のため、幕府と一揆勢によって戦われた、原城をめぐる攻防戦(島原の陣)にも参戦しています。
黒田家の家臣たちの多くは、戦国時代の終わりから姫路(ひめじ)周辺の武士として黒田家に仕え、江戸時代の初めにかけて、さまざまな戦陣を潜り抜けてきた人々が大半です。それを反映して本館収蔵の福岡藩士の甲冑には実戦的な当世具足が多く残されています。
〈珍しい当世具足〉
当世具足として珍しいものを福岡藩士の具足や、本館収蔵資料から紹介します。まず丸胴具足は、胴丸などと同じく二枚胴ではありませんせんが、立体的で、伸縮性のある伊予札などを利用して作られています。また以前からあった威糸を使った毛引(けびき)威の二枚胴の具足もあり、古風さを好む武士に人気がありました。桶側胴には、胴の板を普通と逆に上から綴じていく逆(さか)胴があります。また鉄板などをおなかの形に合わせた胴も見られます。桶側胴は、胴の板を縦に繋ぐ(矧ぐ)タイプもあり、縦矧胴といわれます。このほか普通の横矧の桶側胴を革などに包んで漆塗し、見かけを一枚の胴に見せる仏胴や縦矧胴に見せたりするものもあります。
〈華やかな当世具足)
合戦では、戦う武士の華やかな個性を目立たせる必要があり、そのためのさまざまな工夫がなされました。まず胸取(むなとり)の具足は胸部分を威糸で威し、普通の桶側胴に続けたものです。腰取(こしとり)の具足はその逆で、桶側胴の下腹部を威糸で威したものです。
胸腰取は桶側胴の伸縮性をますという実用的な利点があるだけでなく。色豊かな威糸が、実戦的な胴と合わさった美しさで目立ちました。これらの造りの具足は伝統的な武家の甲冑の造りかたとのミックスであるため、武士たちに人気がありました。このほか胴を華やかな金泥の漆塗りなどで目立たせるものもありました。
〈具足師田中氏〉
福岡藩に仕えた具足師は、福岡藩の城下町建設とともに呼び寄せられた岩井氏(いわい)が有名で、藩の軍団の大部分を占めている下級士卒に、合戦時に藩が貸し出すための大量の御番(おばん)具足を製作しました。
江戸時代中期の享保時代に岩井氏から出た田中源工(たなかげんこう)(定増)とその子の二代目源工(厳)は、その技術の巧みさで、福岡藩主黒田長政をはじめとする歴代藩主の甲冑の修理や、新藩主の甲冑の制作などに携わり、その功で藩の御抱具足師にに取り立てられました。また多くの家臣からも注文を受けて個性的な甲冑を製作しています。 (又野 誠)