平成27年6月16日(火)~平成27年8月16日(日)
二 銃後のあり方
筥崎宮での戦勝祈願 |
入営・出征する兵士の見送りは、見送る人と見送られる人に戦時であることを強く意識させるものです。同時に、見送る人に銃後の意識を持たせるものでした。日中戦争勃発時には、地域をあげた盛大な見送りが行われましたが、戦争の長期化に伴い節約が訴えられるようになると、簡素な形式に改められます。さらに、太平洋戦争がはじまると、戦意を高めるため、再び盛大な見送りが行われました。また、神社に戦勝祈願に赴くことは、行楽であると同時に、銃後の意識を高める役割を果たしました。
戦時貯金通帳と戦時債権 |
戦争を行うためには、多大な費用が必要となります。戦費調達のため、銃後の国民には、日常生活での質素倹約と、貯蓄債券・報国債券などの戦時債券の購入が割り当てられました。
空襲に備えることも、銃後のつとめとされました。福岡では、昭和6(1931)年にはじめて防空演習が行われました。人びとは町内会などを中心に防火・空襲演習を行いました。当時のポスターからは、防空意識の高まりを読み取ることができます。
三 戦時の手紙
軍事郵便 |
一方、戦地の将兵から出される郵便物、および彼らに向けて送られる郵便物は、軍事郵便として一般郵便と区別されました。軍事郵便はドイツで始まった制度で、日本では日清戦争の時期に導入されました。戦地からの郵便物は無料、戦地への郵便物は有料でした。戦地からの手紙には、情報管理のため検閲がなされており、検閲者の捺印が見られます。予め、戦闘に関する情報については伏せ字が用いられました。
四 女性と戦争
近代日本では、軍事援護を主たる事業とする婦人団体が結成されました。明治32(1899)年成立の愛国婦人会、昭和5(1930)年に政府主導で結成された大日本連合婦人会、満洲事変勃発後の昭和7(1932)年に成立した大日本国防婦人会などです。戦時期の婦人会は、地域を単位として、貯蓄や防空に関する講習会や訓練を行っていました。太平洋戦争中の昭和17(1942)年2月、これらの団体を統合した大日本婦人会が結成されました。
法被姿で防空訓練に参加する国防婦人会員 |
昭和17(1942)年4月1日、市内大名町実業学校講堂で、大日本婦人会福岡市支部結成式が行われました。翌月、婦人会の行事として、幹部錬成講習会、軍人葬儀参列、資源寄付、国民貯蓄、陸軍病院慰問奉仕などが計画されています。慰問袋の話題もあり、「中ニ必児童ノ成績品ヲ入ルコト」と記されています。
昭和18(1943)年の記事には、食料関係が多く見られます。例えば、「馬鈴薯(ばれいしょ)パン」、「大豆飯」、「いもの茎の白和」などの作り方が記されています。食料が不足し、米や小麦などを他の食材で代用したことがわかります。
昭和20(1945)年には、火傷の状態と対処法、止血法などが書き留められており、空襲を想定した講習会が行われていたことがうかがえます。
戦局が悪化する中で、婦人会が食料の不足や空襲の問題に直面していたことを読み取ることができます。