平成27年6月16日(火)~平成27年8月16日(日)
空襲後の福岡市の空撮写真 |
五 空襲
昭和20(1945)年6月19日の深夜から翌20日の未明にかけて、マリアナ基地から飛来した約220機のB‐29の編隊が福岡市を爆撃しました。投下された焼夷弾は1358トンに及んだといわれています。焼夷弾は、爆発による破壊を意図した爆弾と異なり、油脂成分を用いて火災を起こすために作られたものです。木造家屋が多かった日本都市への攻撃に効果的であるとして、太平洋戦争期、アメリカ軍で使用されました。投下された焼夷弾の部品・破片は、金属資源として回収された後、当館に寄贈されたものもあります。
これにより、福岡市の中心部の三割以上が焼失、死者数や詳細な被災地域については、現在に至っても未確定のままです。
近年、国立公文書館で福岡大空襲の戦災概況図が公開されました。これは、昭和20(1945)年12月、第一復員省資料課によって作成されたものです。戦地から復員した兵士たちにとって、故郷の被災状況は大きな関心事でした。そのため、第一復員省は主要都市の戦災状況を調査しました。戦災概況図には、焼失区域が朱色で囲まれて表示されています。これを見ると、博多部を中心に、西は室見川から東は石堂川まで、焼失地域が点在したことがわかります。被災状況は、当館が所蔵する航空写真からも確認することができます。
また、空襲で生じた火災の激しさを示す資料が、近年当館に寄贈されました。麹屋(こうじや)町(現博多区)にあった銅銭の束で、瓶に入れて蔵で保管していたところ、福岡大空襲の際、蔵に焼夷弾が落下し火災の熱で融解して金属塊となったものです。蔵に残ったものは銅銭の束と土人形だけであったそうです。
六 終わらない戦時
復員した兵士たち |
終戦に伴い、人びとの状況にも変化が訪れます。大きな問題であったのは、戦時に国外にいた人びとの本国帰還でした。軍人・軍属にあった人びとの帰還は復員と呼ばれ、これ以外の人びとの帰還は引き揚げと呼びます。博多港は引揚援護港に指定され、昭和22(1947)年まで、約139万人の復員・引き揚げ者を迎えました。復員引き揚げは、いわば戦時の延長であり、人びとが平時に戻るまでには相応の時間が必要でした。
さらに深刻であったのは、ソ連に抑留された人びとでした。第2次世界大戦末期の昭和20(1945)年8月9日、ソ連は日本に宣戦布告し、日本の降伏後各地の日本軍を武装解除しました。捕虜となった日本軍人は、ソ連領内に連行され長期間留められます。これを抑留といいます。抑留者の帰還は、昭和22(1947)年から、ソ連との国交が回復する昭和31(1956)年までの長きにわたりました。
出征兵士の家には、戦後、生き残った戦友から遺品が届けられることがありました。当館に寄贈された麻袋には、出征兵士の名前が記されています。戦後に戦友から届けられたものでしたが、袋の中の日の丸旗の寄せ書きは、別人のものだったそうです。
戦争が終わった後も、それぞれに戦時を抱きしめながら、人びとは戦災復興に向かっていったのです。(野島義敬)