平成27年8月18日(火)~10月18日(日)
はじめに
代数の計算に頭を悩ませる戦前の修猷館の学生 (館蔵 藤井家資料) |
第一室 学校の歴史
「修猷館」扁額 (福岡県立修猷館高等学校所蔵) |
東学問所修猷館に掛かっていた扁額。書いたのは中国・清の官僚。「修猷」とは中国古代の歴史書『書経(尚書とも)』の「践修厥猷=そのみちをふみおさむ」という言葉が語源。 |
医学館(現福岡市中央区大名2丁目付近)の図 (館蔵 福岡藩大組大野家資料) |
「妙楽寺尋常小学校」の蔵書印がある字典 (館蔵 奈良屋小学校資料) |
江戸時代、福岡藩には二つの藩校がありました。一つは儒学(じゅがく)の中の朱子(しゅし)学を中心に学んだ東学問所「修猷館(しゅうゆうかん)」、一つは儒学の中の古文辞学(こぶんじがく)を中心に学んだ西学問所「甘棠館(かんとうかん)」です。共に開校したのは天明(てんめい)4(1784)年で、藩政を担う多くの人材を輩出しました。
また、幕末には福岡城下に西洋の進んだ医学などを学ぶ医学館「賛生館(さんせいかん)」も設置されます。医学館は現在の九州大学の母体となりました。この他にも庶民教育の拠点として櫛田(くしだ)神社(福岡市博多区)や桜井(さくらい)神社(糸島市)には現在の図書館のような施設が作られ、読み・書き・そろばんを習う寺子 屋(てらこや)も19世紀以降に増加していきます。その数は福岡藩領内で243校を数えました。
明治時代になると、「学制」の公布(明治5・1872年)によって国民全員が学校に行くことを目指すようになります。しかし、制度の不備や授業料負担の問題などもあり、明治19(1886)年からは文部大臣森有礼(もりありのり)の主導で、いわゆる「学校令」が公布され、学校制度が徐々に整えられていきました。また、明治23(1890)年には「教育勅語(ちょくご)」が発布され、各学校には勅語と天皇陛下の写真を収める「奉安殿(ほうあんでん)」が設置されるようになります。こうした過程で徐々に小学校の就学率は上昇し、明治時代の終わりには9割を越えるようになりました。ただ、小学校以上の学校に進学する人は戦前の段階でも男女合わせても二割程度だったといいます。
戦後、「教育勅語」は効力を失い、教育改革によって、選択肢がたくさんあった「複線型」の学校制度はいわゆる「6・3・3・4制」を採用した「単線型」へと変化します。また、近年ではほとんどの人が高等学校へと進学するようになったり、都市中心部の人口の減少により学校の統廃合が行われたり、学校を取り巻く状況は大きく変貌しつつあります。