平成28年4月26日(火)~平成28年7月3日(日)
滑石製子持ち勾玉
古墳時代は、前方後円墳体制が全国的に広がったことにより、画一的な祖先崇拝を基本とした祭祀行為が行われていたようです。社会体制が祈りの対象を変換させたともいえます。
埴輪は古墳の周囲に樹立されました。埴輪の起源には諸説ありますが、考古学的には壷と器台から発展したことが分かっています。整然と樹立された円筒埴輪列は視覚的にも古墳が聖域であることを示し、物理的な結界としての働きもありました。墳頂部や祭壇部分(さいだんぶぶん)に設置された人物埴輪や様々な形象埴輪は、埋葬にともなって催された葬送儀礼などの祭祀行為を再現したものであり、そこには厳かな「いのり」が込められています。
また、発掘された様々な種類の出土品のなかにも古墳時代の人々の「いのり」を具現化したものが散見されます。子持ち勾玉は大きな勾玉に複数の子勾玉が接続して造形されたもので、多産のイメージから繁栄の祈りが込められたものと考えられています。勾玉はもともと縄文時代に出現したもので、皆さんが知っている定型的な「C字形に湾曲した勾玉」の形となったのは弥生時代のことです。
祓に使われた人面土器
古代は国家体制がより一層整備された時期でもあり、「いのり」という行為が個人的なものから集団的なものへと、そしてその内容も大きく変容していく時期でもあります。律令体制の中、様々な儀礼・儀式が形式的に整えられ、それに関わる道具類が登場しました。
祓(はらい)の儀式で用いられた「人形(ひとがた)」と「人面土器」は最も特徴的な「いのり」の器です。人形とは人の形をした形代(かたしろ)で、まじないや治療、地鎮や祓のための身代わりに使用された呪具の一種です。人形に息を吹きかけ一撫でし、我が身の罪穢れを人形に移し祓いました。同様に人面土器もそっと息を吹き入れて罪穢れを移し、川に流すことで祓いを行っていたようです。これらは道教の影響下で成立した習俗と考えられています。
この時期には仏教が伝来し、鎮護国家のために受け入れられます。このような背景のなかで建立された各地の古代寺院は、国家的な事業として推し進められた側面が強く、信仰として民衆の生活に根付いていたかは考古学的な発掘調査からは見えてこない事柄であります。
中世の福岡、特に博多遺跡では、「いのり」に関する資料としては、仏教に関連する出土品があります。これは博多湾岸に栄西(ようさい)や円爾(えんに)らにより聖福寺(しょうふくじ)や承天寺などの寺院が相次いで建立されたことなど、新しい文化や技術等がいち早く伝わる「福岡」の特性なのかもしれません。
信仰の対象として、「偶像」である仏像が製作され、発掘調査からも懸仏(かけぼとけ)や小型の銅製仏像の出土が報告されています。出土する銅製仏像は阿弥陀如来や十一面観音像などで、概ね4~5㎝程度の大きさを測り、天衣(てんね)等が表現されています。これらの銅製仏像は特に決まった場所から出土するわけではないことから、信仰心の厚い人が個人的に所有していたものだったのかもしれません。
また、博多遺跡からは、経塚が発見されています。これら経塚は通常、人里離れた山頂や聖域として捉えられている場所に造営されるものです。発見地点は、かつて博多百堂と称された宋商人たちの霊廟跡地の端あたりに位置し、経塚が造営された十二世紀の段階でも聖域として認識されていた可能性が考えられます。経塚は遠い未来まで仏の正しい教えを守り伝えるために造営されたもので、まさに「いのり」が具体的に遺構というカタチとして残されたものです。
博多遺跡では仏教だけではなく民間信仰に関わる資料も数多く出土しています。土師器(はじき)の坏(つき)には猿や馬などの動物の絵、まじないの言葉が描かれていました。猿は魔除け、馬は願掛けとして描かれたのかもしれません。これらは現在の絵馬に相当するものでしょうか。
同じように博多遺跡から出土した猿面の型は庚申信仰(こうしんしんこう)に関わるものです。現在も福岡市早良区に所在する猿田彦神社では、災難を祓い福を授けるものとして「猿面」が頒布されていますが、中世後半期から続けられていることが分かります。この他にも戦国時代にはキリスト教も信仰の一つとして受け入れられ、博多遺跡からはメダイとその鋳型が発見されるなど、「いのり」には多様なカタチが存在していたことが分かります。
本展示で紹介した各時代の「いのり」のカタチは、現代にも姿を変えて残っているようです。日々の暮らしにある何気ない「いのり」の由来を考えてみませんか。
(本田浩二郎)