平成30年4月3日(火)~平成30年6月3日(日)
焼塩土器(金武青木遺跡出土)
はこぶ
『延喜式(えんぎしき)』では、筑前国の庸(よう)(成人以上の男性に課せられる税のひとつ)として、塩三石九斗七升五合(約600㎏)を定めています。前述したように、製塩土器は割れた状態で見つかることがほとんどです。出来上がった塩はどのようにして運ばれたのでしょうか。その候補として考えられる容器のひとつに焼塩土器があります。
海の中道遺跡や、西区金武青木(かなたけあおき)遺跡、博多区雑餉隈(ざっしょのくま)遺跡で見つかった焼塩土器は、一風変わった三角錐(さんかくすい)のような形や細長い形で、この中に出来上がった塩を詰めて焼いたと考えられています。焼塩土器の製作方法には大きくわけて2通りの作り方が見られます。ひとつは輪積みによる成形方法。もうひとつは、型作りによる成形方法で、内面には布目が残っているものがあります。型作りは同一規格の土器を大量に生産することができ、税として納めるために塩の量を計測する上では利便性があります。しかし、運搬の面ではどうでしょう。この不安定な形では運搬に難があるように思われますが、何か特別な工夫や理由があったのでしょうか。中身だけ取り出して運んだ可能性や消費地で焼塩をつくった可能性もあるでしょう。焼塩土器は官衙(かんが)や役所に関連する遺跡から出土することが多く、焼塩の用途は限られたものだったのかもしれません。そのほかに一般的に使用する塩は、壺などの容器に入れられ運ばれたのでしょう。
焼塩壺蓋(福岡城下町遺跡出土
あじわう
塩は、食べ物を美味しくしてくれるだけでなく、生の肉や魚の長期保存を可能にするため私たちの食生活には欠かせないものです。現代では塩分の過剰摂取が問題になっていますが、不足していても体に不調をきたします。茨城県霞ヶ浦周辺では縄文時代から製塩が行われていたことを示す土器が見つかっていますが、狩猟・採集を主な生業とする時代においては、動物の肉や海産物からの塩分でまかなえていたと考えられます。
『延喜式』には、塩漬けの魚や醤(ひしお)といった言葉が出てくることから、平安時代には様々な料理や調味料に塩を使用していたことが読み取れます。食事で塩を使っていた証拠として遺跡から見つかるものとしては、江戸時代に流通する焼塩壺があります。焼塩壺(やきしおつぼ)とは、粗塩(あらじお)を専用の容器に詰めて蓋をして焼いて精製したもののことです。粗塩にはにがりが残っているため、加熱することでにがりが飛んだ塩になり、旨味も増すと言われています。焼塩壺は、福岡城跡や博多遺跡群から多く見つかっており、武家や裕福な商人たちによって消費されていたと推測されます。焼塩壺には、「御壺塩師/堺湊伊織」などの刻印が付けられているものがあり、関西地方で生産されて全国に流通していたことを物語っています。福岡藩でも江戸時代に製塩が行われていますが、現在のところ福岡の地名の入った焼塩壺は見つかっていません。
引札「官塩元売捌所」
うる・かう
中世には各地の塩座によって、江戸時代には塩問屋(一部は藩による専売)によって取り扱われていた塩ですが、明治38(1905)年、日露戦争の最中に日本政府は塩を専売制とする決定を下しました。日露戦争の財政収入が主な目的でしたが、安い外国産の塩に対抗して国内の塩産業の保護・育成と価格・生産の安定にもつながるものでした。専売制では、官費による塩の輸送を実施し、政府が指定した塩売捌人が政府から塩を買い付け、政府指定の小売人に売り渡し、さらに小売人から消費者へ売り渡される仕組みになっていました。塩の販売許可を得た販売者は、「塩元売搬所」の看板や「塩販売鑑札」を掲げて商売を行いました。
技術の進歩により、現代の私たちは塩に困るということはありませんが、普段何気なく食べている塩の裏側には長い歴史と人々の様々な工夫がありました。
(福薗美由紀)