平成30年5月2日(水)~7月1日(日)
はじめに
18、波文螺鈿鞍(重要文化財)
福岡市美術館と当館がそれぞれ所蔵する、福岡藩主ゆかりの「黒田資料」を併せて活用するシリーズ展示の八回目は、黒田家の先祖とされる「宇多源氏(うだげんじ)」がテーマです。黒田家が先祖に対してどのような考え方を持っていたのか、そして、それは時代によって変化するのかを、各時代の資料を通して読み取っていきたいと思います。
先祖を意識し始めたのはいつから?
黒田家が先祖のことを意識し始めたのは系図作成がきっかけでした。寛永(かんえい)一八(一六四一)年に江戸幕府から系図を提出するように指示があり、黒田家は尾張藩(おわりはん)の儒学者(じゅがくしゃ)・堀正意(ほりまさおき)(杏庵<きょうあん>、一五八五~一六四二)を担当として調査を開始します。当時の福岡藩主は二代忠之(ただゆき)(一六〇二~五四)でしたが、自分だけでは分からないこともあったようで、弟の秋月(あきづき)藩初代藩主・長興(ながおき)(一六一〇~六五)と情報交換をしています。そのやりとりの中で、長興が「黒田氏は近江(おうみ)佐々木氏の流れとのことだが、その中でも京極(きょうごく)氏の流れという話もある」と兄に伝えています【資料2】。
そうしたやり取りを経て提出した黒田家の系図は、宇多(うだ)天皇(八六七~九三一)から八代目の佐々木秀義(ひでよし)に始まり、定綱(さだつな)―信綱(のぶつな)―高信(たかのぶ)―氏信(うじのぶ)―満信(みつのぶ)―宗満(むねみつ)―高満(たかみつ)―宗信(むねのぶ)―高教(たかのり)―高宗(たかむね)―(中絶)―重隆(しげたか)―識隆(のりたか)―孝高(よしたか)―長政(ながまさ)―忠之(ただゆき)と連なるものになっていました。ちなみに、途中の高宗から重隆へといたる間に「中絶」とあるのは、同じ宇多源氏の流れである京極家が提出した系図と年代的なズレが見つかって、黒田家の方に修正が入ったからというのが理由です。
こうして、江戸時代になった段階で、完全ではないものの、黒田家は宇多源氏をルーツとする佐々木氏に連なる家であると、公式に知られることになりました。
調査は続くよどこまでも
17、源雅信像
その後、黒田家では「黒田家譜(くろだかふ)」という歴史書が作成されます。編さんを担当したのは儒学者・貝原篤信(かいばらあつのぶ)(益軒<えきけん>、一六三〇~一七一四)です。篤信は江戸時代始めに幕府によって否定された「中絶」を繋げる努力を重ねます。たとえば、篤信が集めた系図の中の一つ「黒田系図」【資料3】では、高満から重隆の間が、高満―満秀(みつひで)―高秀(たかひで)―高清(たかきよ)―重隆となっていて断絶なく繋がっています。
また、自身が作成に関わった「黒田世譜(くろだせいふ)」【資料4】では、信綱の曾孫の宗清(むねきよ)という人物の存在を明らかにし、この人物が近江国黒田村に住んで、黒田氏を名乗るようになり、その後、高政(たかまさ)という人物の代に近江を去って備前国福岡(びぜんのくにふくおか)へ移り住んだと記しています。系図にすると、秀義―定綱―信綱―・・・―宗清―高政―重隆―識隆―孝高となります。
そして、こうした調査の結果完成した「黒田家譜」【資料7】では、秀義以降は定綱―信綱―氏信―満信―宗清―高満― 宗信―高教―高宗―高政―重隆―職隆(もとたか)―孝高―長政―忠之―光之となり、断絶なく繋がる系図が出来上がりました。
江戸時代後期に再び幕府は大名家の系譜の編さんを行い、その成果は「寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかぶ)」としてまとめられます。しかし、黒田家の場合は、同族とされる京極家との比較によって系図に矛盾(むじゅん)が生まれるため、今回も「断絶」のままとされました。江戸時代の黒田家の系図は幕府に提出した公式の系図とそれ以外では記載が異なるものになっていたのです。