平成30年5月2日(水)~7月1日(日)
宇多源氏の中心メンバーに?
明治時代になると、これまで公家(くげ)や大名(だいみょう)であった人々は「華族(かぞく)」として再編成されることになりました。その後、宮内省(くないしょう)によって華族の系譜調査が行われ、明治九(一八七六)年にその成果が『華族類別録(かぞくるいべつろく)』としてまとめられました。これにより、公家も大名も先祖という共通項によって新しいグループが作られるよう になり、同じ先祖を持つグループ同士が、 お互いに助け合って家を存続させていく ことが求められるようになりました。
黒田家が分類されたのは、宇多天皇の孫・源雅信(みなもとのまさのぶ)(九二〇~九九三)を祖とする宇多源氏のグループです。二一家が所属し、讃岐国丸亀(さぬきのくにまるがめ)藩主であった京極家や、石見国津和野(いわみのくにつわの)藩主の亀井(かめい)家が名を連ねていましたが、その中でも黒田家は領知高(りょうちだか)五一万石余りで最大の家でした。実際、明治一〇年に建立された「宇多源氏始祖追遠之碑(うだげんじしそついえんのひ)」(京都市右京区)では、題額の字を黒田長知(ながとも)(一八三九~一九〇二)が書いており、同族の中での存在の大きさを窺わせます。
その後、この分類をもとにした華族同士の相互扶助制度は明治一七年に廃止され、以降は公侯伯子男(こうこうはくしだん)の五爵(ごしゃく)制度によって華族が統制されることになります。
しかし、宇多源氏の同族の結びつきはなくなったわけではなく、その後も度々記録の中で「源氏会」という言葉が登場したり【資料23】、佐々木氏を祀(まつ)る沙沙貴(ささき)神社(滋賀県近江八幡市)とのつながりを示す品々【資料20、21、22】が残っていたり、昭和のはじめまで、実態としては様々な活動をしていたようです。
ちなみに、冒頭の口絵で紹介している、市美術館所蔵の波文螺鈿鞍(なみもんらでんぐら)(黒田家伝来、重要文化財)は、佐々木信綱(一一八一~一二四二)が宇治川(うじがわ)の先陣争いで使ったという伝承がある他は、その由緒はよく分かっていません。道具帳に登場するのも明治以降なので、もしかすると、こうした宇多源氏に対する意識が高まった明治以降に入手したものなのかも知れません。同じく市美術館所蔵の源雅信像【資料17】も明治二五年の作であり、入手の動機としては、同様の文脈で捉えることが出来るのではないでしょうか。
おわりに
黒田家は、江戸時代初めの段階では先祖に対する認識が明確ではありませんでしたが、貝原篤信らの努力により徐々にその系譜を確定させていき、明治時代になると、ついに宇多源氏を背負って立つ存在にまでなりました。
人々の心のよりどころ(アイデンティティ)の一つである先祖の問題について、今回の展示では、時代によってその捉え方は変わっていくもの、という事例を紹介しました。ルーツなどを考える際の参考になれば幸いです。
(宮野弘樹)