平成30年8月7日(火)~10月14日(日)
天保中江戸男女専ら博多絞りを用ふ紺地[割注:色美也]に亘り寸ばかりなる目結(めゆい)を所々に散し或は諸花の形其他種々の絞りあり(第十三編 男服中)
天保末年真岡(もおか)木綿瑠璃(るり)色紺地に一二寸或は三五寸花形其他種々白く絞りたるを博多絞りと号し浴衣(ゆかた)に用ふ(第十七編 染織)
天保年間は一八三〇年から一八四四年にあたりますから、一八四〇年代の前半頃に、やや大きめの花柄をはじめとする様々な文様を散りばめた(ただしこれは紺地を白く染め抜いたものとされていますが)博多絞りが江戸で大流行したというわけです。
写真3 大正時代の博多絞り店
この流行の四半世紀ほど前、文化一一〈一八一四〉年に、博多の商人・清兵衛(せいべえ)(のちの山崎藤兵衛〈やまさきとうべえ〉)は博多織を商うため江戸に赴き、面白いエピソードを残しています。彼はなんと歌舞伎の大看板・七代目市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)と大物歌舞伎狂言作者・鶴屋南北(つるやなんぼく)を説き伏せて、役者たちに博多織と博多絞りの衣装を着せ、芝居のせりふに宣伝文句をふんだんに織り込んでもらったのです。 これが「江戸中の評判となり」博多絞りの名は、博多織とともに「すみずみまでもしれわた」ることになったのでした(伊東尾四郎〈いとうおしろう〉「山崎藤兵衛事蹟」)。
大都会への博多絞りの売り込みは、これに限ったことではありませんでした。明治一四(一八八一)年に上野で開催された第二回内国勧業博覧会(ないこくかんぎょうはくらんかい)に際して博多の商人・八尋利兵衛(やひろりへえ)は、会場近くの上野公園内に絞染社なる店を開き、ビラをまいて博多絞りの宣伝販売に打って出ました。彼はその前々年に博多の冬の大売り出し「せいもん払い(誓文晴〈せいもんばれ〉)」を企画するなど機知に富んだ人で、こうした目先の利く人々がぜひとも他国に紹介したいと考えた逸品が、外ならぬ博多絞りであったともいえるでしょう。
明治一〇(一八七七)年に東京・上野公園で開催された第一回内国勧業博覧会では、上洲崎町(かみすさきまち)の永末清次、行町(ぎょうのちょう)の秋部利平、横大路秀吉、妙楽寺町(みょうらくじまち)の中村武平、中間町(なかままち)の浦幸右衛門、箔屋町(はくやまち)の半田茂作、綱場町(つなばまち)の豊村清兵衛、掛町(かけまち)の井上治三郎が共同で「花紋賞牌」を受けています。
内国勧業博覧会には、その後も毎回博多絞りが出品されました。とくに京都・岡崎公園で行われた明治二八(一八九五)年の第四回には、上洲崎町の永末清次、同町楢﨑善平、上西町(かみにしまち)渡邊渡三郎、掛町井上梅次郎がそれぞれ二〇点ずつ、中石堂町(なかいしどうまち)の浦宗太郎、行町横大路秀吉が各一〇点ずつ出品するなど、たいへん積極的な参加がみられました。