平成30年8月7日(火)~10月14日(日)
写真4 木綿地雲に綾杉文様反物
『福岡県勧業年報第八回』に、明治一八(一八八五)年の博多絞り製造元が前年より一軒減って六軒になったことが記されています。そして昭和を迎えるまで、生産者の数が大きな変化をみせることはなかったようです。
大正時代の前半に最盛期を迎えた博多絞りは、木綿の軽やかな肌触りが浴衣の素材として最適で、紺のみならず紅や紫を用いるなどした特色ある図柄が、多くの人々に愛用されました。当時は横大路、井上、楢﨑、武田、品川、生野の各店が競い合って商売をしていたようです。
しかし昭和一三(一九三八)年の綿糸配給統制規則に始まる物資の配給制度等は博多絞りにも大きな打撃を与えました。生産量は急速に減少し、後の空襲による工場の焼失や、疎開等による染色や括り(くくり)の職人の離散も相まって、ほとんどの製造元が廃業に追い込まれました。
戦後、博多絞りの自家生産に復帰できたのは生田房吉商店(のち博多絞製造有限会社)のみ。博多絞りの伝統は、その廃業(平成八〈一九九六〉年)とともに幻となりました。 (松村利規)