平成30年8月28日(火)~10月28日(日)
久保園遺跡出土 和同開珎拓本
奈良・平安時代の日本は律令国家として銭をつくり、これを貨幣つまり「物を買える価値がある物」として発行をしました。「お金」をほとんど知らない社会に突如現れた銭はどのように広まっていったのでしょうか。記録に残る政府の動き、出土する銭より古代のお金を追ってみましょう。
お金をつくる
久保園遺跡4次
和同開珎
飛鳥時代の慶雲(けいうん)5(708)年正月、武蔵国(むさしのくに)から銅が産生しました。元明(げんめい)天皇はこの出来事を受けて「和銅(わどう)」に改元し、5月に銀の和同開珎(わどうかいちん)、八月には銅の和同開珎を発行します。この銅銭は長く つかわれていたため、全国で数多く発掘されています。福岡市内ではこれまで博多遺跡群(博多区)から集中して出土していましたが、近年福岡空港構内(久保園(くぼぞの)遺跡/博多区)でも見つかりました。
銭貨をつくったのは鋳銭司(じゅせんし)」という役所でした。 これは特定の国に臨時に置かれた官司のようです。大宰府が管轄する西海道(さいかいどう) (九州)諸国に鋳銭司が置かれた記録はみえませんが、和銅3(710)年に大宰府は銅銭を献上しています。またそれから六年後、政府は大宰府に対し、銭の原料を取引をしている「悪党」たちを取り締まるよう命じています。これらの記録から、このあたりで鋳銭に関わる動きがあったことがうかがえます。
博多遺跡群107次
万年通宝
悪党たちの目的は、私的に銭貨をつくることにありました。この私鋳銭(しちゅうせん)は官銭の価値をゆるがしかねないものです。そこで政府はこの行為に対して斬(ざん)(死刑)や遠流(おんる)など厳しい罰則を定めました。一方で私鋳銭をやめるように度々命じていた記録もあり、私鋳銭はつくり続けられていたことがわかります。和同開珎から半世紀ほど後に出された万年通宝(まんねんつうほう)の発行の理由には、私鋳銭が流通の半分を占めるほど増えてしまったことが挙げられています。
流通させるために
表 奈良・平安時代の銭貨一覧
政府は私鋳銭を禁止すると共に、銭の流通のために様々な制度を整えました。特に和同開珎発行から養老(ようろう)年間(717〜724)までの15年ほどの間で次々と政策を打ち出しています。
まず支払い手段として、都で開かれる市(いち)での取引に銭を使用することとし、役人の給料の一部も銭にしました。和銅3(710)年の平城京(へいじょうきょう)への遷都に際して、都造営の日当にも、一文つまり和同開珎一枚が支払われました。 畿内近辺では税である調庸(ちょうよう)を銭で納めさせることで銭を流通させる仕組みをつくりました。
また、銭の価値を保障するため、一定額を蓄えて納めた者には、位階を授ける法を定めました。さらに地方役人である郡司の任用の際には、いくら優秀でも銭を持っていなければ選ばないとして、流通の裾野を広げようとしました。