平成30年8月28日(火)~10月28日(日)
博多遺跡群56次
隆平永宝
雲行き怪しい平安銭
平安時代に入ると、政府は畿外の者の蓄銭を禁じ、銭を都とその周辺に集中させるような政策をとりました。 その背景には、銭の流通、蓄銭が進んだことで、都近辺で銭が不足したこと、さらに9世紀に入ると原料である銅自体も不足してきたことがなどがありました。
平安時代初期に発行された隆平永宝(りゅうへいえいほう)は、出土する銭の大きさにばらつきがみられます。 この差は、20年ほどの発行期間の中で銭が徐々に小さくつくられていったことによるのかもしれません。新銭は小型化し、また粗悪になっていく一方で、新銭発行の際には旧銭の10倍の価値を付けていることが多くありました。
姿や意味がいろいろなお金
鴻臚館跡出土 砂金
奈良・平安時代の貨幣が全て銭であったわけではありません。銭がつかわれる以前から稲や布は、この時代を通じて貨幣としての役割をもっていました。
また、対外貿易においては、主に布や綿が用いられていました。そして、9世紀になると、大宰府では大陸との貿易での代替物が綿から金に変化していたようです。 貿易の窓口であった鴻臚館(こうろかん)跡(福岡市中央区)からは、ヒマワリの種ほどの大きさの砂金(2.75グラム)が出土しています。
貨幣として銭貨が流通したことで、人々と銭との間には新たな関係が生まれました。文献史料には、様々な目的でつかわれていた銭の様子をみることができます。
平安時代に書かれた医学書『医心方(いしんほう)』には、出産後その胎盤(胞衣(えな))と共に銭貨を五枚埋めると書かれています。また、『源氏物語』には「碁手(ごて)の錢(ぜに)」という言葉をみつけることができます。これは産養(うぶやしない)(出産後に宴や贈答をする貴族の通過儀礼)での贈り物のひとつとして挙げられています。また「碁手の錢」はそもそも、碁の勝負に賭ける銭を意味し、賭け事に銭がつかわれていたことも分かります。
このように人生の節目や生活の中でも、銭の存在は身近な物になっていたようです。
小さいお金・文字が読めないお金
海の中道遺跡3次(東区)
貞観永宝(上)
延喜通宝(下)
粗悪化の一途をたどった平安時代の銭ですが、貞観(じょうがん)年間(859〜877)は古代の銭貨政策の過渡期となります。貞観永宝(じょうがんえいほう)の発行にあたって、政府は銭貨の材料として旧銭を回収し、また新たに鋳銭所を設置します。 しかし、状況を打開するには至りませんでした。
10世紀に入って出された延喜通宝(えんぎつうほう)、乾元大宝(けんげんたいほう)の大きさは現在の1円玉ほどです。和同開珎が10円玉くらいの大きさですから随分と小さくなっていることが分かります。
出土銭の材質を調べると、銅銭というよりも鉛銭といえるほど鉛の割合が大きいものも出てきます。 また、古代の法令集『延喜式(えんぎしき)』(927年成立)には、銭文が一文字でも明らかであれば使用するように書かれ、文字がはっきりとしない銭が出回っていたことが分かります。このように粗悪化が進んだ銭は人々の信用を失い、次第に貨幣の役目を果たさなくなっていきました。
銭が貨幣として使用されなくなったのは、平安時代最後の官銭となった乾元大宝の発行から間もない 10世紀後半から11世紀頃だと考えられています。古代には250年ほどの間に金銀銭を含め15種類の銭がつくられました。その後しばらくの間、銭がつくられることはなく、次に貨幣として銭が登場するのは12世紀末、渡来銭が流通する中世を待つことになります。 (佐藤祐花)