平成31年4月2日(火)~7月15日(月・祝)
福岡市誕生前夜の街の様子
「福岡博多鳥瞰図」(明治20・1887年)
はじめに
今からちょうど130年前の明治22(1889)年4月1日、福岡市が誕生しました。この日、福岡を含む全国の31の都市(九州では長崎、久留米、熊本、鹿児島、佐賀)が市制を施行しました。
ただ、この時の福岡市の面積は5.09平方キロメートルで、江戸時代の福岡城下の範囲と同程度、現在の市域の67分の1に過ぎませんでした。また、人口も50,847人で、現在の30分の1の規模でした。現在では158万人を超え、東京23区、横浜市、大阪市、名古屋市、札幌市に次ぐ全国で6番目の人口となっていますが、市制施行直後は、全国で15番目、九州では鹿児島市、長崎市に次いで3番目の規模でした。
福岡市はここからどのように発展していったのでしょうか。本解説では福岡市が自分たちの姿をどのような言葉で表現し、また、各時代でいかなる都市を目指していたのかを振り返り、その変遷から都市の変化を読み取ってみたいと思います。
共進会場が描かれた「福博案内図」
(明治43・1910年)
福岡県の首都として
明治29年に福岡日日新聞社の記者が著した『新編福博たより』によれば、明治維新の頃までは、福岡・博多を訪れる人は「唯ただ京坂地方に上る者か、中国路より九州に下る者か、或は商業上の取引の為(ため)のみにて、其の他は、お金と暇とに不足なき素封家(そほうか)か、但しは太宰府詣の人々が旅の序(ついで)に見物かたがた立寄る位」(同1頁)であったといいます。
明治24年に福岡市役所が発行した『福岡市誌』でも、都市の特徴については「海陸運輸ノ便ヲ有シ福岡県治庁ノ下ニアリテ商工業殷賑(いんしん)ノ一市ナリ」(同12丁目)と紹介しているのみで、明治22年の博多・久留米間の鉄道開通をふまえた表現になってはいるものの、他都市と比較して取り立てて発展しているという書き方にはなっていません。 これが明治後期になってくると徐々に変化が出てきます。明治43年に九州商報社が発行した『福岡市案内記』では、以下のような表現が見られるようになります。「市は戸数1万2千、人口8万、福岡県庁あり、第35旅団司令部あり、其他各種の官衙(かんが)学校等大抵此地に集り、一県政治の中心地たる而已(のみ)ならず、其位置九州の中央にありて清韓(しんかん)両国と対峙し、陸に九州鉄道あり、海に博多港を控へ地形交通の利便は商工業の殷盛(いんせい)を促し、海陸の貨物常に輻輳(ふくそう)して地方経済上の中心地たる観あり。(中略)即ち本市は福岡県の首都、商工業の中心地たる外、亦た実に外客の遊覧地たるなり、之を以て貨客の出入常に頻繁にして、市況活気を呈し、市街年を逐(お)うて膨張発展しつつあるを見る。」(同1頁)
この年は肥前堀を埋め立てた広大な敷地(現市役所周辺)を会場に第13回九州・沖縄8県聯合共進会が開催されると共に、路面電車も開通し、街の景観が大きく変化しました。また、翌年には隣の箱崎(はこざき)町に九州帝国大学が設置されます。「福岡県の首都」という意識が住人に芽生え始めたのもそうした変化をふまえたものと考えられます。
ただ、同年に共進会の福岡県協賛会が発行した『福岡県案内』では、博多港について「古来博多は繁栄の地にして、殊に清韓と相対し、交通上利便の位地を占むるを以て、此港の外国貿易は、最も古き歴史を有せり、然(しか)れども港内の設備未(いま)だ成らず、従て同港の貿易額は一箇年輸出入僅(わずか)に66万2千円余に過ぎず。」(同14頁)とあり、福岡県内では門司(もじ)港(貿易額4,500万円)、若松(わかまつ)港(同500万円)に大きく水をあけられていました。博多港の施設整備は福岡市の大きな課題でありました。
東亜博覧会場が書かれた
「福岡市街及郊外地図
(昭和2・1927年)
九州の中心都市として
大正時代に入ると、福岡市は徐々に周辺の町村を編入し始めます。大正元(1912)年の警固(けご)村を最初として、同4年に豊平(とよひら)村の一部、同8年に鳥飼(とりかい)村、同11年に西新(にしじん)町と住吉(すみよし)町と合併し、面積は20.68平方キロメートル、人口は14万6,005人(大正14年国勢調査)になりました。九州では鹿児島市を抜き長崎市に次ぐ2番目の人口規模となったのです。
この間、県庁新庁舎(大正4年)と警察署新庁舎(同5年)の完成、上水道の給水開始と市役所新庁舎の完成(同12年)、福岡市初の都市公園・水上公園の開園と九州鉄道福岡・久留米間(現西鉄天神大牟田(おおむた)線)の開業(同13年)、市内初の本格的デパート・玉屋(たまや)の開店(同14年)等、近代的な都市景観が形成されていきます。 昭和2(1927)年に福岡市役所が発行した『福岡市案内』には合併による人口増や官庁、学校の多さ、交通の利便性、文化都市的施設の完備などの都市機能の充実に続けて、「今や本市は九州の中心都市として将又西日本の大都市として遠近に其の雄名を馳するに至つたのである。」(同2頁)と高らかに宣言しています。
この年には福岡城西側の大堀の埋立地で東亜(とうあ)勧業博覧会が開催されます。会場までのアクセスのため路面電車の城南(じょうなん)線が開通し、160万人もの来場者が会場を訪れました。
そして、昭和5年の国勢調査では人口が22万8,289人となり、ついに長崎市を抜き九州で最も人口が多い都市に躍り出ます。面積は66.75平方キロメートルで、5年間で3倍以上の市域に成長しました。
大東亜共栄圏確立の前進拠点として
昭和11年、博多港修築計画の第1期工事がようやく完了し、博多築港記念大博覧会が盛大に開催されます。しかし、その翌年に日中戦争が、同16年に太平洋戦争が始まると、徐々に人々の生活にも戦争の影響が出始めてきます。福岡市を紹介する文章もそんな時代を色濃く反映したものになっていきます。
昭和16年に福岡協和会が発行した『最新福岡市地図』の裏面には「大福岡市のしるべ」として博多と福岡の違いを紹介した後、「今や半島、満州(まんしゅう)、支那(しな)の要衝となり空路海路の設備は既に超国家的である。而して学都としての完備、商業都市、遊覧都市、更に療養都市として跳躍の意気旺(さかん)に新興の熱に燃え其の発展目醒(めざま)しく近年周囲町村の合併頻(しき)りである」と鼻息荒く表現しています。
翌17年に福岡市役所が発行した『市勢要覧』では「6大都市ニ次ク大都市トナリ更ニ大東亜共栄圏確立の前進拠点トシテ明日の大飛躍ヲ約束セラレ居レリ」(同2頁)とあり、戦争をきっかけとして都市を発展、飛躍させていこうとする将来像が示されます。ちなみに「6大都市」とは東京、大阪、名古屋、神戸、京都、横浜のことです。
この間、東は箱崎町(昭和15年)、西は今津(いまづ)村(昭和17年)までの周辺の町村を編入し、市の面積は128.82平方キロメートルと12年でさらに2倍の大きさとなり、人口は30万6,763人(昭和15年国勢調査)になりました。