平成31年4月2日(火)~7月15日(月・祝)
空襲を受けた場所が色分けされた
「福岡市地図」(昭和21・1946年)
西日本の雄都として
戦争は日本各地に大きな被害を及ぼしました。福岡市も昭和20年6月19日のアメリカ軍による空襲により1,000人以上の犠牲者が出て、市の中心部が焼け野原となりました。
昭和22年の『市勢要覧』は、戦災で大きな被害を受けたことを冷静に振り返る一方で、「その将来には多大の繁栄が期待されている」(同2頁)と前向きなメッセージが語られます。
そして、昭和25年の『市勢要覧』になると「全国8大都市の一つ」「九州の雄都」という戦前にも見られたような言葉が改めて登場してきます。さらに「人口100万の大都市建設が市民の話題となっている」とあり、当時40万人弱であった人口を倍以上にしていこうとする将来像が示されます。
その後、昭和20〜30年代の『市勢要覧』における福岡市の自己認識を追うと、都市の発展に対応して変化する表現を読み取ることができます。27年は「西日本最大の雄都」、30年は「九州の主都」、31年は「西日本における政治経済文化の中心地」、34年は「名実ともに西日本一の雄都」、35年は「西日本の首都」、36年は「名実ともに西日本最大の都市」、37年は「西日本の中枢的都市」のように、少しずつ表現を変えながら、段階的に発展する都市像が表現されています。
一方、目指すべき都市像については昭和30年代以降の『市勢要覧』から具体的に登場してきます。例えば、32年は「戦災復興から総合的近代都市」、34年は「総合的に明るく住みよい近代都市として市民と明るい希望と幸福を築いて行きたい」、36年は「100万都市を目標に」、「近代的総合都市としての街づくり」、37年は「国際都市として大きく突進せんがために、いま力強くスタートラインをふみしめている」、「九州開発の中心としての近代的な総合都市の建設という目標」、38年は「九州の大拠点都市にふさわしい町づくり」、「やがて登場するであろう、国際都市としての檜(ひのき)舞台をめざして」といった表現が見られます。「100万都市」は38年に発足する北九州市を改めて意識したもの、「国際都市」はアメリカ合衆国オークランド市との姉妹都市提携(37年)をふまえた言葉と考えられます。
この間も、周辺町村との合併は続きます。昭和36年の周船寺(すせんじ)村、元岡(もとおか)村、北崎(きたざき)村との合併後の市域は239.85平方キロメートルとなり、戦前の福岡市の2倍程度になります。人口も戦前の約2倍となる64万7,122人(昭和35年国勢調査)まで増加しました。
新旧の博多駅が描かれた「福岡市街全図」(昭和38・1963年)
九州の管理中枢都市として
福岡市は昭和36年に全国に先駆けて『総合計画書』(マスタープラン)を策定します。そこでは市の問題点として、第2次産業、特に製造業の貧弱さが挙げられています。そして目指すべき都市像としては、「弱い工業を育成し、本市の性格に工業的色彩を加えることにより2・3次産業間にバランスの取れた総合都市化」(同4頁)を図り、「東京、大阪、名古屋のそれのように、本市も総合都市として政治、経済、産業、学術、文化、交通、通信等のすべてについて西日本経済圏における中心的性格を強め首都性を高めていくべきものと考えるし、また海外についても博多港・板付(いたづけ)空港を拠点とする世界的都市になるべきものと考える」(同5頁)と述べています。
しかし、昭和41年の『総合計画書』(第1次改定)の冒頭では「理念としては、たんなる工業導入偏重をさけ、九州の管理中枢都市としての都市機能充実と、市民の身ぢかな生活・文化基盤の強化を中心においた」とあり、工業化から一歩引いた姿勢が示されます。そして、「明日の都市像」として「1 生活環境整備の優先、2 都市型産業の強化、3 管理都市機能の充実、4 個性ある市民文化の造型」(同1頁)の4本の柱が示されます。さらに、「都市が発展するということは、いたずらに都市が膨張することではない。正しい市民要求と、高い市民意識が育ち、それが具体的な都市構造に定着することだと理解する」(同3頁)として、将来の都市像を決めていく主体についての意見も述べられています。
市民主体の考え方は昭和44年に制定された「福岡市民のことば」にも表されています。それは次のようなものです。
福岡市は九州の主都、あすへむかつて、いきいきと発展しています。筑紫野の緑と玄海の白波にかこまれ、ここには、輝かしい歴史と伝統が築かれてきました。わたしたち福岡市民は、誇りと責任をもつて、次のことをさだめます。
- 1 自然を生かし、あたたかい心にみちたまちをつくりましよう。
- 1 教育をおもんじ、平和を愛し、清新な文化のまちをつくりましよう。
- 1 生産をたかめ、くらしを豊かにし、明るいまちをつくりましよう。
- 1 力をあわせ、清潔で公害のないまちをつくりましよう。
- 1 広い視野をもち、若さにあふれる市民のまちをつくりましよう。
その後、昭和46年には志賀(しか)町を編入し、市域は254.56平方キロメートル、政令指定都市となった47年には人口が91万2,058人(推計人口)となり、いよいよ100万都市が現実味を帯びてきます。
昭和47年の『総合計画』(第2次改定)の冒頭では「人間都市としてのより高い目標を設定し、緑あふれるユニークな政令指定都市づくりに努力して参りたい」と阿部源蔵(あべげんぞう)市長のメッセージが語られます。そして、「計画の目標(都市像)」として「①高福祉都市の創造、②国際的情報都市機能の充実、③激動し高速化する時代への対応」(同1頁)の3つの柱が示されます。
昭和50年には早良(さわら)町を編入し、市域は334.78平方キロメートル、人口も100万2,201人となり、ついに大台を突破します。市域はその後埋め立てなどで若干拡大はしますが、現在へと繋がる市の範囲が固まりました。そして、この合併の8日後、山陽新幹線が全線開通し、東京―博多間が7時間弱で結ばれる新しい時代が到来しました。
昭和51年には『福岡市基本構想』が策定され、「(1)心豊かな市民の都市、(2)生きた緑の都市、(3)制御システムをもつ都市、(4)学び、創る都市」という将来の都市像が示されます。無秩序な都市の膨張を防ぐため「制御システム」という言葉を登場させたのがこの時期の一つの特徴と言えるでしょう。昭和52年と56年に改定された『総合計画』でもこの都市像が継承されていきます。
発展し続ける都市の中で消えていくものもありました。昭和54年には増え続ける自動車に押され路面電車が全て廃止されます。また、昭和56年の地下鉄空港線の開業後、58年には博多駅から姪浜(めいのはま)駅まで市域の中央部を東西に結んでいた筑肥(ちくひ)線の線路が廃線となり、街の景色が大きく変わっていきました。
アジアのリーダー都市をめざして
昭和62年に改定された『基本構想』ではあるべき都市像として「1 自律し優しさを共有する市民の都市、2自然を生かす快適な生活の都市、3 海と歴史を抱いた文化の都市、4 活力あるアジアの拠点都市」が掲げられます。特に4番目の「アジアの拠点都市」はこれまでの構想には見られない都市像であり、福岡市が次のステージへ進もうとする意気込みを見ることが出来ます。
こうしたアジアとの関わりを意識した福岡市のあり方を内外に広く知らしめたのが「アジア太平洋博覧会‐福岡'89」と言えるでしょう。市制100周年を記念して平成元(1989)年3月から9月にかけて開催されたこの博覧会は823万人もの来場者を集め、アジアの中の福岡という意識を市民が広く共有する機会となりました。平成2年に開館した当館も建物が博覧会のテーマ館として使われたゆかりの施設です。
平成24年に四半世紀ぶりに策定された『基本構想』では、めざす都市像として「住みたい、行きたい、働きたい。アジアの交流拠点都市・福岡」を掲げています。そして、「1 自律した市民が支え合い心豊かに生きる都市、2 自然と共生する持続可能で生活の質の高い都市、3 海に育まれた歴史と文化の魅力が人をひきつける都市、4 活力と存在感に満ちたアジアの拠点都市」を四本柱として、現在はこの都市像を実現する途上にあります。
福岡市130年の都市像の変遷を振り返ると、その時々で都市が抱えていた課題や市民の意識が読み取れ、目指す都市像を随時アップデートしてきた様子が分かります。福岡市はこの先どのような都市になっていくのでしょうか。本展示が今後の福岡市を考える上で何かしらのヒントになれば幸いです。(宮野弘樹)