藩主になるはずだった殿様
令和元年7月9日(火)~9月8日(日)
はじめに
1 黒田綱之像
江戸時代、筑前国(ちくぜんのくに)(現在の福岡県北西部)ほぼ一国を治めたのは、福岡藩主・黒田家でした。福岡藩の藩主は、初代・黒田長政(くろだながまさ)から最後の藩主・黒田長知(ながとも)まで12代を数えますが、藩主の長男で幕府からも跡継ぎと認められ「藩主になるはずだった」にも関らず、何かしらの理由で藩主にならなかった殿様もいました。
今回は、今まで展覧会では取り上げる機会の少なかった「藩主になるはずだった殿様」に関わる資料を展示し、その人柄や「どうして藩主にならなかったのか?」その理由や事情について、ご紹介したいと思います。
厳格な父
最初に紹介するのは、3代藩主・黒田光之(みつゆき)の長男・黒田綱之(つなゆき)です。
黒田綱之は明暦(めいれき)元年(1655)3月、赤坂溜池(東京都港区)にあった福岡藩の江戸中屋敷で生まれました。幼名を万千代と言い、寛文(かんぶん)5年(1665)年2月、11才の時に4代将軍・徳川家綱(とくがわいえつな)に初めて拝謁しました。ここに万千代は幕府から次期藩主として認められることになりました。
2 黒田万千代書状
当館には、幼少期の万千代が、守役(教育係)の長濱四郎右衛門(ながはましろうえもん)に宛てた書状が7通残されています。下の書状【資料番号2】には、
御てのいたみいかゝ候や、みまいにつかわし候
とあり、「手の痛みはいかがですか。見舞いとして書状を送ります。」と、幼い万千代が四郎右衛門の手の痛みを気遣っている様子が、幼い文字とその文面から見て取れます。他の書状からも、万千代が四郎右衛門をお茶に招いたり、贈り物をしたりするなど、二人の交流の様子がうかがい知れます。
寛文9年正月、15才となった万千代は元服し、従四位下筑前守に叙任(じょにん)され、松平姓と「綱」の一字を徳川家綱から与えられ、綱之と名を改めました。
寛文13年(延宝(えんぽう元年)、1673)3月、綱之は父・光之に伴われて初めて福岡に入りましたが、光之は常日頃の息子の言動に不安を抱いていたようです。これ以前から綱之は江戸において諸大名と交遊し、盛んに酒宴を催すなどしていましたが、幕府への忠義と黒田家の存続を第一に考える光之から見ると、この綱之の行動は、とても危うく映ったのでしょう。同年11月、綱之が参勤した後に江戸にいる藩士・大音重次(おおとしげつぐ)に送った書状【資料番号11】で「江戸に着いた後は慎んでいる様子で満足している」と記していることからも、光之の心情がうかがえます。
しかし、その後も綱之の振舞は光之の意に沿うものではなかったようです。延宝3年閏4月、2度目の在国中であった綱之は帰国した光之によって突如、福岡城二の丸に蟄居(ちっきょ)させられました。同5年2月には廃嫡(はいちゃく)(家督を相続出来なくなること)となり、綱之は剃髪(ていはつ)して、同年12月には屋形原(やかたばる)(福岡市南区)に移り住みました。光之は、綱之の代わりに支藩・直方(のおかた)(東蓮寺(とうれんじ))藩主となっていた弟の黒田長寛(ながひろ)を跡継ぎに決め、長寛は後に綱政(つなまさ)と名を改め4代藩主となりました。
光之は、宝永(ほうえい)4年(1707)5月に亡くなりますが、綱之に宛てた遺言【資料番号16】を残しています。その中で光之は、自らの死後は勘当(かんどう)を許すので、今後も慎み深く暮らすよう記しています。遺言を受け取った綱之は翌5年7月、父の後を追うように亡くなりました。