藩主になるはずだった殿様
令和元年7月9日(火)~9月8日(日)
親に先立つ
次に紹介するのは、4代藩主・黒田綱政の長男・黒田吉之(よしゆき)です。
黒田吉之は天和(てんな)2年(1682)6月、江戸で生まれ、左京と名付けられました。元禄(げんろく)4年(1691)2月、10歳の時に初めて5代将軍・徳川綱吉(つなよし)に拝謁すると、同9年12月、従四位大隅守に叙任され、綱吉から松平姓と「吉」の一字を与えられて吉之と改名しました。
吉之は、元禄12年7月、大和国郡山(やまとのくにこおりやま)藩主・本多忠常(ほんだただつね)の養女(三河国挙母(みかわのくにころも)藩主・本多忠利(ただとし)の娘)と婚約、宝永2年9月に婚礼を挙げました。
この間、吉之は宝永2年2月に初めて福岡に帰国し、同4月、父・綱政と共に長崎へ赴き番所を巡見。長崎奉行所や出島のオランダ商館を訪れるなど次期藩主としての務めを果たしていました。長崎から帰国した後に、吉之は隠居していた黒田光之の屋敷を訪ねていますが、前藩主であった光之の眼から見ると、若い吉之の振舞は藩主として心許なく映ったようです。2年後、吉之に宛てた遺言【資料番号21】の中で、吉之の言動が慎みに欠け、わがままになってしまうのではないかと心配している、と苦言を呈しています。
また、吉之は生来体が弱く喘息(ぜんそく)などを患っていたようです。「黒田新続家譜」にも病気のため療養する吉之の様子が記されています。そして、宝永7年の夏頃から体調を崩した吉之は、様々な治療を受けるも効果が見られず、7月、29才の若さで亡くなりました。吉之を失った綱政は次男・守山政則(もりやままさのり)(後の5代藩主・黒田宣政(のぶまさ))を跡継ぎとしました。
最後に6代藩主・黒田継高(つぐたか)の長男・黒田重政(しげまさ)を紹介します。
黒田重政は、元文(げんぶん)2年(1737)9月に福岡城三の丸下屋敷で生まれ、左京と名付けられました。福岡で生まれた左京は、11才になるまで国元で育ち、延享(えんきょう)4年(1747)11月、初めて江戸に赴きました。
翌延享5年(寛延(かんえん)元年)正月、父・継高に伴われて江戸城に登り、9代将軍・徳川家重(いえしげ)に初めて謁見した左京は、同年11月に元服し、従四位下修理大夫に叙任され、家重から松平姓と「重」の一字を与えられ、重政と改名しました。
宝暦(ほうれき)8年(1758)正月、重政は元服後初めて幼少期を過ごした福岡に帰国し、家臣の礼を受けました。同10年、2度目の在国時には継高に従って長崎へ赴き長崎警備の様子を巡見するなど、父の下で次期藩主としての務めに励んでいました。
しかし、宝暦12年、6月初旬頃から重政は浮腫(ふしゅ)(むくみ)を発症、様々に治療を施されたものの7月に亡くなりました。継高は、重政の弟・黒田長経(ながつね)を跡継ぎにと幕府へ願い出ましたが、長経も翌13年8月に亡くなったため、同11月に御三卿の一橋(ひとつばし)徳川家から隼之助(はやのすけ)(後の7代藩主・黒田治之(はるゆき))を養子に迎え、跡継ぎとしました。 (髙山英朗)