古の刀剣
令和元年8月20日(火)~10月20日(日)
武器の変貌
鉄器化が進む時代にも、祭りの道具などとして武器形の青銅器や木器などは盛んに使われており、武器がもつ多様な性格をうかがうことができます。
上月隈(かみつきぐま)遺跡(博多区)の甕棺墓(かめかんぼ)(紀元前1世紀頃)に副葬された銅剣は、刃部の研ぎの方向を一定パターンで変えて縞(しま)文様に輝く加工をしています。実用武器としての機能性は失われており、祭器(さいき)としての性格が強い剣です。
この時代をピークに青銅武器を墓に副葬する事例は著しく減少し、武器の副葬は鉄製の刀剣類が主体になります。武器形の青銅祭器は弥生時代の終わりまで存続しますが、剣よりも矛や戈が主体になっていきます。
豪族の刀
古墳時代前期後半から中期(4世紀後半~5世紀)には全国的に刀剣の副葬が増加します。刀剣が普及するとともに日本列島内での生産も本格化し、その背景に高句麗(こうくり)の勢力拡大など、朝鮮半島の軍事的緊張があったと考えられます。福岡市内では、日本列島最古級の横穴式石室をもつ前方後円墳の老司(ろうじ)古墳(南区)や鋤崎(すきざき)古墳(西区)に多くの刀剣が副葬されています。
弥生時代に登場し、古墳時代もステータスシンボルであった環頭大刀には、柄(つか)に文様造形が施された装飾付大刀(そうしょくつきたち)も出現します。その中でも朝鮮半島製とみられる三葉文(さんようもん)刀の登場は古く、福岡では古墳時代前期から後期にかけての前方後円墳などから出土しています。
5世紀末の吉武(よしたけ)古墳群S群9号墳(西区)からは柄の金具に龍(りゅう)の文様装飾が施された朝鮮半島南部・伽耶(かや)の装飾付大刀が出土していますが、龍や鳳凰(ほうおう)の造形文様をもつ装飾付大刀が全国的に増えるのは6世紀後半からです。小規模な円墳が群集する桑原石ヶ元(くわばらいしがもと)古墳群には全体的に武器や馬具(ばぐ)の副葬が多く、鳳凰の造形をもつ装飾付大刀が副葬されていた8号墳の被葬者は糸島の軍事的拠点を基盤とした人々の指導者とみられます。龍鳳文(りゅうほうもん)大刀のルーツは百済(くだら)や伽耶など朝鮮半島にあると考えられますが、本例はその文様や製作技法の特徴から日本列島での製作とみられます。ヤマト政権直営の工房で作られ、各地の軍事的に有力な豪族に配布された一つと考えられるでしょう。
鉄の刀剣の一部に金や銀の針金状の線を埋め込んで文様や文字を記す象嵌(ぞうがん)技法の装飾付大刀も近隣の古墳群から出土しています。
朝鮮半島三国(さんごく)の興亡を通じて国際的な緊張が高まる古墳時代後期(6~7世紀)には鉄や武器の生産がさらに増大したとみられます。それとともに、工芸技術を駆使した装飾付大刀も佩用(はいよう)する人の権威を高めるシンボルとして盛んに作られるようになり、古代日本の刀剣生産の礎(いしずえ)となりました。(森本幹彦)