「肖像」を読み解く
令和元年9月10日(火)~11月10日(日)
実在する人の顔や姿を絵や彫刻であらわす肖像(しょうぞう)は、洋の東西を問わず古くから作られてきました。人が肖像を残す理由は様々ですが、根底の部分では誰でも年をとり、死ねば肉体が永遠に失われるという事実と深い関係があります。
また肖像を見るということは、自分にとって、家族にとって、組織にとって大切な人のイメージをこの世に留め、あらわされた人物(像主(ぞうしゅ))との絆(きずな)を確認する行為という見方もできます。
本展示では、こうした人間のあり方や関係性の視点を意識しながら、肖像に込められた世界を読み解きます。
家族の絆
肖像の中には家族が制作に関与したものが数多く見られます。その中には父母が高齢になったのを機に息子が絵師に描かせたものや、没後の1回忌や3回忌といった区切りの年に制作されたものがあります。こうした肖像は像主の命日に掛けられるという点で今日の葬儀で用いる遺影と似ていますが、家族はその肖像を見ることで絆を深め、故人とのつながりを意識できたと言えるでしょう。
江戸時代前期の福岡藩の重臣・立花重種(たちばなしげたね)(不慥斎平山居士(ふぞうさいへいざんこじ))の肖像(1)もそのひとつです。描いたのは重種の息子で茶道「南坊流(なんぼうりゅう)」の祖としても有名な立花実山(じつざん)(1655~1708)で、像主は頭巾(ずきん)をかぶり脇息(きょうそく)に肘かけることから隠居後の姿とわかります。画中に添えられた2首の和歌も実山のもので、「絵にだにも うつる心のまことには かはすことばの有といふものを」からは、今は亡き父を偲び、肖像に語りかける実山の姿が想像されます。
また筑前秋月藩士・松村無翁(まつむらむおう)の肖像(3)は、無翁が66歳となった安政6年(1859)に、長男が京都の絵師荒木寛一(あらきかんいち)に描かせたものです。幕末期の作品らしいリアルな描写に加え、画中に細かく記された経歴から、無翁の人となりが伝わってきます。上部に大書された俳句は藩主の黒田長元(くろだながもと)が寄せたもので、無翁が藩主からあつく信頼されていたこともわかります。
いっぽう江戸時代の博多で蝋燭商(ろうそくしょう)を営んだという武田家の歴代当主を描いた「武田家肖像(たけだけしょうぞう)」(8)は、珍しい群像の肖像画です。初代から7代目までの当主が松竹梅を飾った島台(しまだい)を囲む情景には、家族の団らんのような和気あいあいとした雰囲気が漂います。
また同家7代当主の妻の肖像「妙祐善女像(みょうゆうぜんにょぞう)」(9)は、像主の33回忌にあたる嘉永2年(1849)に制作されたものです。像主の前に描かれた鳥籠や魚の入った盥(たらい)は生き物を解き放つ「放生(ほうじょう)」を意味し、生き物に対して慈悲深い人物であったことが窺われます。なお画中には女性は夫や家に従うという当時の社会通念を反映したものか、本人の分と並んで夫の賛文(さんぶん)も添えられています。