「肖像」を読み解く
令和元年9月10日(火)~11月10日(日)
偉業を称える
偉大な高僧や特定の組織・分野で優れた功績のあった先人は、後に続く人々にとっての追慕の対象となりました。その肖像を作ることは先人の偉業を称える行為であり、時には肖像を持つこと自体が像主の後継者としての地位を保証する場合もありました。
真言宗(しんごんしゅう)を開いた弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)(774~835)の肖像(11)は、中央に密教法具と数珠(じゅず)を握って坐る空海を配した鎌倉時代の作品です。よく見ると上下に空海が開いた高野山(こうやさん)金剛峯寺(こんごうぶじ)の伽藍(がらん)が描かれており、像主はまるで高野山の上空に浮かんでいるように見えます。空海は歴史上の人物ですが、信仰上は弥勒仏(みろくぶつ)がこの世に現れる遠い未来まで高野山で入定(にゅうじょう)して(生き続けて)いると信じられてきたことから、本作品はそうした生身(しょうじん)の姿を表したものと考えられます。
また江戸初期に将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)に侍医として仕えた曲直瀬玄朔(まなせげんさく)(1549~1631)の肖像(12)には、門下生の玄春(げんしゅん)の求めに応じて書いたという自賛があり、師弟関係の中で作られたことがわかります。画中には寛(くつろ)いだ様子で長椅子に坐る老医師の姿が描かれていますが、同様の構図は禅僧の肖像(頂相(ちんそう))にも類例があることから、この作品は卒業の証(あかし)として師から弟子へ渡す印可状(いんかじょう)のような意味を持っていたと言えそうです。
見立てる
肖像の中には実在の人物を歴史上の偉人や神仏などになぞらえる「見立て」による作品もあります。
江戸初期の絵師・住吉具慶(すみよしぐけい)(1631~1705)の「柿本人麻呂像(かきのもとのひとまろぞう)」(17)の顔に注目してみましょう。柿本人麻呂は歌聖(かせい)として崇められた奈良時代の宮廷歌人で、通常は白髪で皺のある老齢の顔にあらわされます。しかしこの像はなぜか壮年男性の顔で、前に置かれた硯箱(すずりばこ)の中身や模様も具体的です。ある研究では、作者の具慶は後水尾(ごみずのお)天皇周辺の人物と関係が深く宮中の伝統にも通じていたことから、当時の宮廷歌人のひとりをモデルにした可能性が指摘されています。
また「布袋(ほてい)と美人若衆図(びじんわかしゅうず)」(18)は文字通り布袋和尚にまとわりつく少女と少年を描いた作品です。賛文は連歌師(れんがし)の西山宗因(にしやまそういん)(1605~1682)が添えたもので「世中や花色ぞめのだん袋 頸(くび)すぢにとりつきかつらの色も香(か)も さらりさんさとすて坊主也」と読めます。毛むくじゃらの布袋和尚はこちらに視線を向けまんざらでもない様子ですが、その顔には不思議な生々しさがあります。
作品の制作時期は不明ですが、宗因は66歳となった寛文10年(1670)に出家しており、またその頃豊前小笠原家や筑前黒田家などから召し抱えの動きもありました。こうした状況や賛文の意味を踏まえると、布袋は世俗のしがらみから自由になった宗因その人の見立てであった可能性があります。
面影を留める
愛しい恋人のかけがえのない一瞬を留めたい。このような想いが肖像の形をとることは日本の近代以前ではほとんどありませんでした。それは肖像が死と関係の深いものと認識されていたからかもしれません。しかし明治以降になると写真が普及したこともあり、肖像に対する観念にも変化が生まれます。
大正から昭和にかけて活躍した博多人形師・小島与一(こじまよいち)(1886~1970)の人形「初袷(はつあわせ)」(20)にもそうした近代肖像のあり方が窺えます。モデルは修業時代の与一が恋焦がれた博多芸妓(げいぎ(こ))のひろ子で、与一は料亭の二階に彼女を連れ出して3日間デッサンに打ち込み、この作品を完成させたと伝えられます。与一は後日ひろ子と結ばれますが、芸妓の身であった彼女は、若き日の与一には手の届かない相手でした。そこでは生と死ではなく二人を隔てる状況が肖像を作る動機になったと言えます。(末吉武史)