水辺の絵葉書-名所風景としての釣り人-
令和元年11月19日(火)~令和2年1月26日(日)
釣り文献コレクター・金森直治(かなもりなおじ)氏は、「釣り」絵葉書コレクションの最初の一枚について、著書『絵はがきを旅する つり人水辺のアーカイブ』で次のように振り返っています。
大きな菓子箱いっぱいの古絵はがき。まことに偶然だったのだが一番上の一枚に釣り姿が写っていたのである。30年ほど前、なじみの古書店でのことだった。「よろしければどうぞお持ちください、差し上げます」と言ってくれたのだが、千円札を一枚置いて持ち帰ったのである。戦前の観光地のもので三百枚くらいあっただろうか。ゆっくり調べてみたのだが「釣り」は結局この一枚だけだったのである。ウーンというほかはなかったが、ともかくこれが長い蒐集のスタートであった。
こうして始まった金森氏の「釣り」絵葉書コレクションは、平成28年(2016)に開催した特別展「釣道楽の世界」をきっかけに、福岡市博物館に寄贈されました。今回の展示では、このコレクションを中心に、近代化の波のなかで大きくその姿を変えた日本の水辺の風景を取り上げます。
かつてはあった水辺の風景
かつては日本中で見られたものの、今では珍しくなってしまったという水辺の風景があります。
◎渡し舟
川の両岸を結ぶ渡船場は、近代化のなかで、橋や道路が整備されていき、数が減り珍しいものになっていきました。例えば、現在、福岡市営渡船には、博多(はかた)・志賀島(しかのしま)航路、玄界島(げんかいじま)・博多航路、能古(のこ)・姪浜(めいのはま)航路、小呂島(おろのしま)・姪浜航路がありますが、それ以外にも、かつては多々良(たたら)川には名島(なじま)の渡し、那珂(なか)川には須崎(すさき)の渡しなどがあったようです。また、東京・隅田(すみだ)川には明治時代には20以上の渡船場があったそうですが、昭和41年(1966)に最後の渡し場が廃止されました。
◎川を下る筏(いかだ)
山から切り出した材木を束ねて筏を組み、川を下る様子も「かつて」はあった光景です。山間の道路の整備が進んだことで、木材の輸送手段は、筏を組んでの川下りから、大型車両や鉄道での運搬に変化していきました。奈良時代(8世紀)から丹波(たんば)山地で切り出された材木を京都へ運んでいた保津(ほづ)川の筏も、明治時代から大正時代にかけての山陰本線の開通やトラック輸送の普及で衰退し、戦後、完全に途絶えたそうですが,近年、流域の文化の再発見や環境保全をめざし、「筏復活プロジェクト」が展開されているとのことです。
◎水辺の子ども
水辺で遊ぶ子どもたちも、最近はあまり見かけないような気がします。水の事故から守るために子どもを水辺から遠ざけることが多くなりましたし、整備された水辺は子どもたちにとって魅力が減じているのかもしれません。絵葉書のなかで子どもたちは、泳いだり、獲物を狙ったり、水の中をのぞき込んだり、実に真剣に水辺を楽しんでいます。
◎木造船
昭和30・40年代頃までは一般的だった木造船も、FRP(fiber-glass reinforced plastic 繊維強化プラスチック)製の船が普及し、今ではほどんど目にすることはなくなりました。絵葉書のなかには、帆を立てた木造船も多くみられます。
また、高知県民謡「よさこい節」に
孕(はらみ)の廻(まわ)し打(うち)
日暮れに帰る 帆傘船(ほがさぶね)
年に二度とる 米もある
よさこい よさこい
と登場する「帆傘船」も、昭和時代前期までは高知・浦戸(うらど)湾の風物詩だったといいます。しかし、大きな和傘を帆として、また日よけとして使っていた帆傘船は、戦後、見かけられなくなったということです。(「孕(はらみ)」は高知・浦戸湾にある地名。「廻(まわ)し打(うち)」は向かい合った船列から次々に投網(とあみ)を打つ漁法。)