福岡城下で暮らす
令和元年12月24日(火)~令和2年2月24日(月・振休)
町絵図を読み解く
唐人町(とうじんまち)の絵図には作成した経緯が書かれています【21】。そこには、券帳だけでは混乱が生じていたので対応する絵図を作成したとあります。絵図には基本的に間口・奥行と券帳への登録者名が「券帳前誰々」と書かれています。しかし、実際には人に貸している場合もあり、登録上の人物と居住者が一致しないことがよくありました【22】。
また、絵図をよく見ると面積が書いてある区画があります。これらは「地主地(じぬしち)」という、多くは海岸や川岸等に新たに造成された土地で、郡地(ぐんち)(年貢が賦課される土地)として藩が把握していた場所です。使い方としては必ずしも農地ではなく、荷上場や網干(あぼし)場など多様な用途に使われていました。
この他、居住者の書き方を見ると名前の下に「様」や「殿」が入った人物、つまり武士もおり、支配の面から考えると非常に複雑な状況になっていました。
明治維新と福岡城下
唐津(からつ)街道沿いの荒戸通(あらととお)り丁(ちょう)(中央区荒戸2・3丁目付近)の明治初年の地図には、間口が狭く奥に細長い町家のような敷地が多数見られます【23】。実はこの場所は江戸時代は上級武士の屋敷が建ち並んでいた場所でした。版籍奉還(はんせきほうかん)(明治2年)、廃藩置県(はいはんちけん)(同4年)という大変革の中、かつて武士だった人びとは屋敷をどんどん手離していきました。「維新雑誌」という記録の明治4年の記事には「侍小路ニテハ東牢屋ノ町、西通り町ハ過半町家ニ変ジ、御堀端ヨリ以東、大名町・天神ノ町等美々シカリシ大組以上ノ邸宅モ、所々解除ケ売却シ間バラ町家ト変シ」とあり、東西を結ぶ通りに面した武家屋敷の多くが町家に変じたことを伝えています(『新修福岡市史 資料編近現代1』)。武家屋敷は他にも学校や役所といった公共機関の敷地に転用されていきました【25】。こうした動きは武士が多く暮らしていた福岡側の方がより顕著でした。
このようにして、武家地・町人地・郡地がモザイク状に存在する複雑な支配の形態はリセットされ、福岡の都市生活は新たな段階を迎えることになりました。(宮野弘樹)