筑紫でうたを詠んだ人
令和2年1月15日(水)~3月15日(日)
はじめに
大君(おほきみ)の遠(とほ)の朝廷(みかど)にあり通(かよ)ふ
島門(しまと)を見れば神代(かみよ)し思(おも)ほゆ
――柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)(『万葉集』巻3-304)
外交と西海道(さいかいどう)(九州)の内政のかなめであった古代の役所、大宰府(だざいふ)は「遠(とお)の朝廷(みかど)」と言われ、官人・僧・防人(さきもり)など多くの人がやってくるところでした。後世「歌聖(かせい)」とあがめられる宮廷歌人、柿本人麻呂もその一人です。筑紫国(つくしのくに)へ向かう道中の歌が残るほか、遺新羅使(けんしらぎし)が同じ道をたどる中で、人麻呂のものとする古歌を誦詠(しょうえい)していたことも『万葉集』には記録されています。
奈良時代の『万葉集』に記される「筑紫(つくし)」は、狭くは大宰府とその周辺、広くは西海道をさし、そこには京や故郷から離れた悲しさが多く詠(よ)み込まれています。「天(あま)ざかる鄙(ひな)」に下るとも表現されたこの地で、古代筑紫のうたの詠み人たちはどのように過ごしていたのでしょうか。
一 筑紫で集う
春(はる)されば先づ咲くやどの梅の花
ひとり見つつや春日(はるひ)暮らさむ
――山上憶良(やまのうえのおくら)(『万葉集』巻5-818)
「令和」という元号の出典となった天平2年(730)の梅花の宴は、『万葉集』に記録された歌会の中で、最大規模の宴です。大宰帥(だざいのそち)(大宰府の長官)の大伴旅人(おおとものたびと)が主催し、筑前守(ちくぜんのかみ)であった山上憶良など西海道各地の役人が大宰府に集まり、盛大に催されました。『万葉集』の筑紫の歌には、宴席で人々に披露されまとめられたものが多くあり、この地を離れるまでのひと時を宴席を重ね、過ごしていた様子がみえてきます。
帰京する官人、渡海する遣唐使らの送別の宴では、筑紫の娘子(おとめ)たちとの別れを惜しむ歌が残されています。土地の人と訪れてきた人が歌を交わす中でも、筑紫での歌壇が築かれていったことがうかがわれます。
大和道(やまとぢ)の吉備の児島(こじま)を過ぎて行かば
筑紫の児島(こじま)思(おも)ほえむかも
――大伴旅人(『万葉集』巻6-967)
筑紫の風景には、遠い京や故郷をおもう心情が重ねられました。平安時代末の平家の栄世から没落までが語られる『平家物語』や『源平盛衰記』には、取るものも取り敢えず流れきて、大宰府の安楽寺(あんらくじ)にて歌を詠み、連歌をしていた平家一行の様子が書かれています。
住みなれしふるき都のこひしさは
神もむかしにおもひしるらん
―― 平重衡(たいらのしげひら)(『平家物語』)