筑紫でうたを詠んだ人
令和2年1月15日(水)~3月15日(日)
二 筑紫に詠んだ女性たち
ちはやぶる金(かね)の岬を過ぎぬとも
我は忘れじ志賀(しか)の皇神(すめかみ)
――作者不明(『万葉集』巻7-1230)
平安時代の宮廷文学『源氏物語』には少女玉鬘(たまかずら)が筑紫に下向する際に、「金(かね)の岬過ぎて我は忘れずなど、世とともの言種(ことくさ)になりて」という『万葉集』の一首を引用する一文が出てきます。作者である紫式部は、越前での地方生活や、夫の宇佐使(うさのつかい)としての筑紫下向を経験しています。父の転勤で筑紫に越すことを嘆く友人とは、文通をする中で歌も贈りあっていました。京を離れる、筑紫へ行くということは紫式部、ひいては京で暮らす女性にとって、嘆きを伴うものである一方で、身近な事であったのかもしれません。
年ふれば我(わ)が黒髪も
白河(しらかは)のみづはくむまで老(おい)にける哉(かな)
――檜垣嫗(ひがきのおうな)(『後撰和歌集』巻17)
平安時代の10世紀前半、檜垣嫗という女性は、筑紫の役人と邂逅(かいこう)し、往時は若く美しかった自身の姿を詠みます。説話として残る、筑紫の片隅に暮らす風流ぶりで有名であった女性の存在は、大宰府を中心とした筑紫の文化の深さを感じさせてくれます。
三 筑紫でこもる・筑紫をめぐる
都府楼纔看瓦色
観音寺只聴鐘声
都府楼は纔(わづ)かに瓦の色を看る
観音寺はただ鐘の声を聴くのみ
――菅原道真(すがわらのみちざね)(『菅家後集』 「不出門」 頷聯)
平安時代中期の学者であり政治家であった菅原道真は、延喜3年(903)、非業(ひごう)のうちに大宰府でその一生を終えました。『菅家後集(かんけこうしゅう)』は左遷先の大宰府で道真が詠んだ漢詩集で、非運の嘆き、謫居(たっきょ)の苦しみが込められています。平安時代に流行した詩歌がまとめられた『和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)』には、道真の七言律詩「不出門(ふしゅつもん、もんをいでず)」のうち、頷聯(がんれん)(第3・4句)部分が収められ、京にいる貴族の間でも道真の思いが口ずさまれていたことがわかります。
秋くれば恋するしかのしま人も
おのが妻をや思(おも)ひいづらん
―― 源重之(みなもとのしげゆき)(『重之集』)
三十六歌仙の一人、源重之は平安時代中期(10世紀末)に筑紫や陸奥へと知人を頼って旅をした漂泊の歌人です。『重之集』には、竈門山(かまどやま)、筥崎宮(はこざきぐう)の松、生(いき)の松原、志賀島、染川(そめかわ)など筑紫で詠んだ歌が残されています。自ら京を離れて巡った場所は、『万葉集』の頃より度々詠み込まれた歌枕の地であり、先人の歌に官位に恵まれない自身の境遇を重ねていたのかもしれません。
おわりに
昭和38年(1963)に太宰府天満宮で再興した3月に行われる曲水(きょくすい)の宴は、平安時代中期の天徳2年(958)、大宰大弐(だざいのだいに)の小野好古(おののよしふる)が始めたと伝えられています。平安時代後期には大宰権帥(だざいのごんのそち)、大江匡房(おおえのまさふさ)が道真のあとを継ぐかのように詩歌に遊び、宴を楽しみました。このように年中行事として、恒例に歌を詠む場がつくられていた記録も残ります。古代に旅愁の場であった筑紫はまた、詠み人たちによって賑わいが生まれる詩歌の場でもあったのです。(佐藤祐花)