茶人の書
令和2年2月26日(水)~令和2年4月26日(日)
◆博多の豪商茶人・嶋井宗室と茶友
上方(かみがた)で侘茶が流行する頃、古来、国際貿易都市として栄えた博多において豪商茶人・嶋井宗室(初めは宗叱)(図3)が登場します。茶の湯を介して、天下人(てんかびと)の織田信長(おだのぶなが)・豊臣秀吉(とよとみひでよし)や、堺(さかい)の茶人、千利休・津田宗及(つだそうぎゅう)らと親しく交わりました。利休が直筆で宗室に宛てた手紙(図2)では、博多に戻った宗室に対し、秀吉ともども再会を心待ちにしていること、秀吉が山崎(やまさき)(京都府)から大坂城(おおさかじょう)に移ったこと、初花(はつはな)の肩衝(かたつき)が徳川家康(とくがわいえやす)から秀吉に贈られたこと等を告げています。さらに興味深い点は、宗室所持の楢柴(ならしば)や新田(にった)とともに天下の三名物(めいぶつ)の一つにあげられるほどの初花の茶入れについて、「我らかたへは珍しからず候」と、数多くの名物茶器を所持した二人ならではの本音が語られています。
◆福岡藩祖・黒田如水の親交
豊臣秀吉を天下人に導いた黒田如水(孝高)は、軍才だけでなく文芸においても才能を発揮しました。如水の肖像画には脇息(きょうそく)にもたれ片膝を立てたくつろいだ姿で描かれるパターン(図4)があります。これは、歌聖・柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の肖像をモチーフにしたもので文化人としての姿を描いたものです。茶の湯は利休流の侘茶に傾倒しました。如水茶湯掟書(ちゃのゆおきてがき)(史料23)では、如水の茶が我流ではなく、利休流であることを強調しています。利休が最晩年に如水に宛てた直筆の書状(図6)では、如水秘蔵の色紙(絵もしくは書)の鑑定依頼に対し、「色紙、別して御秘蔵たるべく候。一段見事に存じ候。」と答えています。(堀本一繁)