ふくおか発掘図鑑0巻
令和2年4月14日(火)~6月14日(日)
はじめに
千を超える遺跡がある福岡市では、その都市化とともに多くの発掘調査がおこなわれてきました。特に行政の文化財保護体制が確立してきたここ50年間の発掘調査の進展にはめざましいものがあります。福岡のみならず、日本や東アジアの歴史に光を当てる発見も少なくありませんでした。
これまで10回開催した「ふくおか発掘図鑑」ではそのような営みや発見の一端を紹介してきましたが、その萌芽(ほうが)は近世から近代に本格化する考古学的な取り組みにあります。偶然発見された遺物(いぶつ)などを考証し、遺跡(いせき)の性格や地域の歴史が追求されるようになり、また、学術的な発掘調査もおこなわれるようになります。
今回の展示では、福岡における黎明期(れいめいき)の考古学を中心に紹介します。
ふくおか考古学のはじまり
貝原益軒(かいばらえきけん)が編さんした『筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)』をはじめ、18~19世紀の福岡藩の地誌には藩内各地の歴史的記述とともに遺跡や遺物発見についての記録が散見されます。天明4年(1784)に志賀島(しかのしま)(東区)で金印が発見された際には、儒学者(じゅがくしゃ)の亀井南冥(かめいなんめい)が中国の歴史書『後漢書(ごかんじょ)』に記された印綬(いんじゅ)であることを『金印弁(きんいんべん)』でいち早く論じました。
これらは福岡で最も古い考古学的な記録や論考といえますが、現代の考古学的な実測図(じっそくず)にも通じる、実物に即した詳細な図面を多く残したのが江戸時代後期の国学者・青柳種信(あおやぎたねのぶ)です。藩内の文化財を調べるうえで、実地調査にもとづく遺跡・遺物の記録に努めました。三雲南小路(みくもみなみしょうじ)遺跡や井原鑓溝(いわらやりみぞ)遺跡(いずれも糸島市)からの遺物出土(しゅつど)を文政5年(1822)に調べていますが、その記録とともに残された遺物の拓本(たくほん)や原寸大の図面などは、出土品の多くが現存していないため、高い資料的価値をもっています。これらの遺跡からは漢鏡(かんきょう)をはじめとする多くの青銅器(せいどうき)などが出土しており、現代の発掘調査成果などからも弥生時代の伊都国王墓(いとこくおうぼ)の遺跡と考えられています。