ふくおか発掘図鑑0巻
令和2年4月14日(火)~6月14日(日)
遺跡と遺物へのまなざし
明治時代の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)や文明開化の世相は、盗掘や文化財の売買・流出が増えるなどの悪影響を及ぼしました。一方、殖産興業(しょくさんこうぎょう)の一環でおこなわれるようになった博覧会(はくらんかい)は文化財保護の役割も担いました。福岡市では明治20年(1887)に崇福寺(そうふくじ)で福岡博物展覧会(ふくおかはくぶつてんらんかい)が行われました。ここに収集品を出品していた江藤正澄(えとうまさずみ)は福岡市で古書・骨董商を営むかたわら、学会誌への投稿や収集品の図説を著し、太宰府に鎮西博物館(ちんぜいはくぶつかん)を建設することも計画しました。これは実現には至りませんでしたが、現代の九州国立博物館に通じる構想です。自身の収集品を中心とする展示計画図面が残っています。また、この時代には、作者不詳ながらも豊前地方を中心に500点近い資料の図をまとめた『豊前・筑前其他出土考古品図譜(ぶぜんちくぜんそのたしゅつどこうこひんずふ)』など、資料集成(しゅうせい)図録も作成されました。
明治時代の終わりから大正時代に郷土史研究が盛んになるなか、考古学の対象として遺跡・遺物が本格的に研究されるようになるのは中山平次郎(なかやまへいじろう)の活動からです。遺跡踏査(とうさ)と採集遺物の丹念な考証を重ね、九州帝国大学の医学部教授でありながら、大正から昭和時代初期の九州の考古学をけん引しました。彼が考察した今山(いまやま)産玄武岩(げんぶがん)の石斧(せきふ)生産、鴻臚館(こうろかん)、元寇防塁(げんこうぼうるい)など、多くの業績が現在の研究や発掘調査の基礎になっています。須玖岡本(すぐおかもと)遺跡(春日市)では、明治時代に出土して散逸していた鏡の破片を足繁く遺跡に通って収集し、30面以上の漢鏡が副葬された奴国(なこく)の王墓があったことを明らかにしました。
都市化の波と遺跡の危機
福岡市における考古学的な発掘調査は大正2年(1913)の元寇防塁(今津(いまづ)地区)が最初になります。福岡日日新聞主催で地元後援会を中心に調査が行われました。中山平次郎は現地で講演会などをおこない、「元寇防塁」の命名は現在に受け継がれています。このときの発掘方法への批判があったためか、以後の中山の活動は前述のような発掘調査によらないスタイルを徹底します。
昭和13年(1938)には区画整理によって遺跡の破壊が進んでいた比恵(ひえ)遺跡群(博多区)で、九州考古学会の中心的メンバーであった鏡山猛(かがみやまたけし)と森貞次郎(もりていじろう)らが発掘調査をおこないました。弥生時代集落の画期的な調査成果をあげますが、都市化にともなう遺跡破壊を食い止めることはできませんでした。
戦後も大学や中学・高校、在野の研究者らを中心に発掘調査がおこなわれましたが、大規模な開発が増え、調査できないままに消滅していく遺跡も少なくありませんでした。福岡市に居住した高野孤鹿(たかのころく)は中山平次郎に師事した在野の研究者ですが、昭和20~40年代の福岡で各地の遺跡を踏査して資料収集をおこないました。福岡城のある平和台に鴻臚館の遺跡が存在することを中山平次郎が大正時代から提唱していましたが、戦後、球場建設などで遺跡破壊が進みます。遺跡の危機に対して高野は遺物収集と記録に努め、瓦のほか中国陶磁器(ちゅうごくとうじき)や中国商人が使用した硯(すずり)など、古代の外交・貿易施設としての遺跡の性格を明らかにする資料を発見しました。これがその後の遺跡保護や調査研究につながります。この他にも斜ヶ浦瓦窯址(ななめがうらがようし)(西区)や愛宕山(あたごやま)(西区)の瓦経(がきょう)など、市内の重要な遺跡・遺物を明らかにしました。
当館では他にも、福岡の文化財保護行政が確立する以前に発見された遺物を多く収蔵しています。縄文時代の貝塚(かいづか)資料、弥生時代の青銅器、古墳時代の祭祀具(さいしぐ)である子持勾玉(こもちまがたま)、平安時代の経塚(きょうづか)資料、博多湾周辺の海から引き揚げられた遺物など、近年の発掘調査成果とも合わせて福岡の歴史を語るうえで欠かせない資料が少なくありません。博物館はそれらを守り伝える役割を担っています。
(森本幹彦)