ダルマさん大集合
令和2年7月21日(火)~9月13日(日)
達磨(だるま)(ボーディダルマ/菩提達磨(ぼだいだるま))は六世紀初めにインドから中国に来て禅(ぜん)の教えを伝えたとされる仏教僧です。この達磨を祖とする中国禅は、やがて日本にもたらされ、臨済宗(りんざいしゅう)や曹洞宗(そうとうしゅう)などの宗派に受け継がれました。これらの寺院では達磨の木像が安置され、画像も盛んに描かれました。また江戸時代以降は大衆文化の隆盛の中で浮世絵の中にも取り入れられ、起き上がり小法師(こぼし)などの縁起物や玩具も各地で作られました。
このように達磨が私たち日本人の文化や生活に広く浸透した理由は、もちろん尊い教えを広めた偉大な人物ということがありますが、そのイメージには他の人物にはないインパクトや魅力があったからと言えるかもしれません。
確かに、描かれた達磨を見ると髭ぼうぼうでぎょろりと目をむいた姿はいかにも恐ろしげですが、衣で全身を覆いずんぐりとした姿はどこか愛嬌(あいきょう)があり、「ダルマさん」と親しみを込めて呼ぶのもわかる気がします。本展示では館蔵の達磨像を紹介し、その魅力を探ります。
◇ 達磨の生涯
達磨の生涯は伝説に彩られ、正確な生没年も分かっていません。ただ中国・北宋時代に編纂(へんさん)された名僧列伝『景徳伝灯録(けいとくでんとうろく)』には、以下のような逸話が記されており、後世の達磨のイメージに大きな影響を与えたと考えられます。
① インドから中国へ
達磨は南天竺(てんじく)(インド)の香至王(こうしおう)の第3王子で、本名は菩提多羅(ぼだいたら)と言った。やがて般若多羅(はんにゃたら)という僧の弟子となり「達磨」という名を授けられた。後に布教のため3年をかけて海路中国に渡った。
② 武帝との問答
達磨は当時中国の南半分を占めていた梁(りょう)の武帝(ぶてい)と面会し、問答を交わした。
(武帝)「私は即位以来、数えきれないほど多くの寺を建て経典を写し、僧を保護してきた。どのような功徳(くどく)(ご利益(りやく))があると思うか?」
(達磨)「功徳などない。」
(武帝)「では真の功徳とはなにか?」
(達磨)「悟(さと)りは円のように完全無欠でしかも実体がない。だから真の功徳も世間の常識では捉えることはできない。」
(武帝)「悟りの神髄とは何か?」
(達磨)「廓然無聖(かくねんむしょう)(心はからりと開けていて聖も俗もない)。」
(武帝)「私の前にいるお前は誰だ?」
(達磨)「わからない。」
③ 蘆葉達磨(ろようだるま)
結局、武帝は達磨の言葉の真意を理解できなかった。達磨は布教の機が熟していないことを知り、長江(ちょうこう)を渡って魏(ぎ)(北魏)に入った(この時達磨は一本の蘆(あし)の葉に乗って渡河したともいう)。
④ 面壁九年(めんぺきくねん)
達磨は洛陽(らくよう)郊外の少林寺(しょうりんじ)に入り、一日中壁に向かって座禅をして人と話すことがなかった。人々はその行動を不思議に思い「壁観婆羅門(へきかんばらもん)」と呼んだ(その後達磨は9年間少林寺に滞在した)。
⑤ 慧可断臂(えかだんぴ)
ある時、神光(じんこう)という僧が達磨の噂を聞き入門を希望した。しかし達磨は座禅を続けて相手にしなかった。神光は立ったまま待っていたが夜から大雪が降り、やがて神光の膝上まで積もった。
憐れんだ達磨は初めて口を開き「悟りの道はこの上なく厳しい。多少の徳や知恵があるからといって軽い気持ちで求めるべきではない。」と言った。その時神光は持っていた刀で自分の左臂(ひじ)を切り落とし、達磨の前に差し出した。これを見た達磨は神光の覚悟が本物であることを知り、新たに「慧可(えか)」という名を与え弟子になることを認めた。
⑥ 隻履達磨(せきりだるま)
達磨は少林寺で弟子を育て、また皇帝をはじめ多くの人々が帰依(きえ)した。しかしその名声を妬(ねた)んだ僧に毒を盛られて殺された。遺体は熊耳山(ゆうじさん)に葬られた。
それから3年後、魏の使者であった宋雲(そううん)が西域(さいいき)から帰る途中、蔥嶺(そうれい)(パミール高原)で片方の履(くつ)(隻履(せきり))を持って歩く達磨に出会った。どこへ行くのか尋ねたところ達磨は「西天(さいてん)(インド)に帰る」と言った。宋雲からこの話を聞いた人々が達磨の墓を開けてみると遺体はなく片方の履だけが残されていた。