筑前を旅する
令和3年4月1日(木)~7月4日(日)
はじめに
江戸時代に入ると、幕府は諸大名の参勤交代や物資の輸送などのため、全国に街道と宿場、海上航路など交通網の整備を進めました。これに伴い江戸時代中期以降には、一般庶民の交通も盛んにおこなわれるようになりました。
数多くの人が旅を楽しむようになった江戸時代中期以降、各地の名所旧跡、地名などの由来・来歴を多数の挿絵を織り交ぜながら紹介する地誌「名所図会(めいしょずえ)」が数多く刊行されました。筑前国(ちくぜんのくに)(現在の福岡県北西部)においては、博多中島町(なかしままち)の商人だった奥村玉蘭(おくむらぎょくらん)が著した「筑前名所図会(ちくぜんめいしょずえ)」がよく知られています。
今回の展覧会では、「筑前名所図会」をはじめとする地誌類に加え、筑前国内を旅した人が書き残した紀行文などから、現代の私たちにとっても身近な「名所」や江戸時代の人々の旅の様子について紹介します。
地誌で筑前を知る
地誌とは、ある地域の地名や地形、風俗、習慣、伝承などを記述してその地域の特色を示した書物のことです。日本では奈良時代に編まれた「風土記(ふどき)」をはじめ古代から地誌の編さんが行われてきました。江戸時代になると幕府や藩が主体となって作った「官撰地誌(かんせんちし)」に加え、学者などの知識人が独自に編んだ「私撰地誌(しせんちし)」など全国各地で多くの地誌が編さんされました。
筑前国では、福岡藩(ふくおかはん)の命によって編さんされた「筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)」(以下、「続風土記」と略記)「筑前国続風土記附録(ふろく)」(以下、「附録」)「筑前国続風土記拾遺(しゅうい)」(以下、「拾遺」)の三つが良く知られ、「筑前三大地誌」と呼ばれています。ここでは「続風土記」と「拾遺」を取り上げ、そこに記されている筑前の名所旧跡などについて紹介しています。
「続風土記」は、福岡藩の儒学者・貝原益軒(かいばらえきけん)が中心となって編集した地誌です。元禄(げんろく)元年(1688)、藩から地誌編さんの命を受けた益軒は、甥の貝原好古(よしふる)や藩の役人とともに数度にわたって藩領内を巡見・調査し、そこで得た資料を用いて編集を進め、宝永6年(1709)に「続風土記」を最終的に完成させました。益軒は生涯にわたって長崎や江戸、上方をはじめとする数多くの地を旅しましたが、「続風土記」はその経験に加え、実地調査に基づいて河川や山野などの景観、寺社や古城・古戦場、各地の名産品などについて詳細に記述されている点に特色があります。
「拾遺」は、福岡藩の国学者・青柳種信(あおやぎたねのぶ)らが編集にあたった地誌です。文化(ぶんか)11年(1814)7月、種信は自らも編さんに関わった「附録」について再調査を行うよう藩から命じられ「拾遺」の編集準備に取り掛かります。種信も益軒と同じく藩領内を調査のために巡見しましたが、その期間はおよそ9ヵ年でのべ百数十日に及びました。「拾遺」は編さん途中に種信が亡くなり、その後も編集が続けられたものの完成を見ませんでした。しかし、稿本(こうほん)を清書したものや写本が伝わっており内容を知ることができます。「拾遺」には絵図が付される計画があったようで、その草稿も残されており、江戸時代後期、筑前国内の景観の一端がうかがい知れます。