筑前を旅する
令和3年4月1日(木)~7月4日(日)
筑前名所図会の世界
「筑前名所図会」は、博多中島町の商人だった奥村玉蘭が編さんした地誌です。残念ながら江戸時代には刊行されませんでしたが、数種類の稿本が残されています。文政(ぶんせい)元年(1818)の序文を持つ稿本がある一方で、奥村家に伝来し、現在、当館が所蔵する稿本(以下、奥村家本と記す)の序文には文政4年の年紀が記されていることから、およそこの時期に編集と改変が行われ、完成したものと考えられます。
「筑前名所図会」の記述は、「続風土記」に依るところが大きいのですが、数多くの挿絵が織り込まれている点が特色です。奥村家本には全10冊で246件の挿絵が収められています。その内容は多岐にわたりますが、筑前国内の有名な寺院や神社、景勝地、町の景観が多数描かれています。これらは玉蘭が自ら現地に出向いて実写したものと考えられ、調査に基づいた描写は丁寧で当時の景観を知る手がかりとなります。その写実性の高さが一因で藩から出版の許可が下りなかったとも伝えられています。
また、「筑前名所図会」では博多松ばやしや博多祇園山笠といった祭礼、各地に残る物語や逸話、歴史上の人物の肖像画などが挿絵として描かれています。各地の寺院や神社などの景観は、先行する「附録」の挿絵でも描かれていますが、当時の人びとの暮らしや伝承の内容などが描かれている点が「筑前名所図会」の大きな特徴です。
筑前を旅する人びと
江戸時代、筑前国内を通る主要街道に長崎街道(ながさきかいどう)がありました。豊前国(ぶぜんのくに)小倉(こくら)から江戸時代における対外交流の拠点であった長崎を結ぶ街道沿いには25の宿場がありましたが、筑前国内の黒崎(くろさき)・木屋瀬(こやのせ)(北九州市八幡西区)、飯塚(いいづか)・内野(うちの)(飯塚市)、山家(やまえ)・原田(はるだ)(筑紫野市)は「筑前六宿(ちくぜんむしゅく)」と呼ばれ、賑わいを見せていました。
江戸と長崎を往来する幕府の役人やオランダ商館長、参勤交代を行う九州の諸大名、長崎へ遊学に向かう学者や文化人など、様々な人びとが長崎街道を利用し、その途上、筑前国の名所旧跡を訪れるというケースが多く見られました。
その主要な旅先のひとつが菅原道真(すがわらのみちざね)を祀る太宰府天満宮でした。江戸時代の旅は有名寺社の参詣を目的とする場合が多く、伊勢神宮(三重県)を参拝する「お伊勢参(いせまい)り」や金刀比羅宮(ことひらぐう)(香川県)を参詣する「こんぴら参り」などがよく知られていますが、太宰府天満宮を詣で周辺の名所旧跡を訪ねることは「さいふまいり」として知られ、太宰府天満宮は旅の目的地として大変賑わいました。
また、江戸時代後期、全国の名所を描いた浮世絵では、松原が広がる箱崎(はこざき)・海(うみ)の中道(なかみち)(福岡市東区)の景観が描かれており、筑前を代表する景勝地として全国的に知られていたことがうかがえます。
さらに、筑前国の政治・経済の中心地であった福岡・博多を訪れる人も多く、さまざまな紀行文にも記述がみられます。尾張の商人菱屋平七(ひしやへいしち)(吉田重房(よしだしげふさ))が著した『筑紫紀行(つくしきこう)』(資料番号26)では福岡と博多の町並について描写があり、博多は「通筋の町屋は大形瓦ぶきにて蔵造りなるに、其外の町々は茅葺多し」、福岡は、「家中町は町はゞ広く、家造りも博多よりはまさりて、町筋華好なり」として、両者を比較しています。 (髙山英朗)