水への祈り
令和3年4月1日(木)~7月18日(日)
生活に欠かすことのできない水。ときには人々に猛威を振るいます。近年も日本列島では洪水や津波などの被害が相次ぎ、私たちは自然の恐ろしさを再認識することになりました。
遺跡の発掘調査では、洪水がもたらした土砂で埋まった古代の水田や、津波の痕跡が発見されることがあります。また、渇水によって放棄された水路が見つかることもあります。水害や渇水(かっすい)に対し、現代の人々は重機とコンクリートを用いた大規模な河川工事で復旧あるいは対策しますが、古代の人々は治水(ちすい)・利水(りすい)のための工事を人力で行うとともに、水に対して祈りを捧げました。古代の人々にとっては、祈りを捧げることも、継続して水を利用するための重要な技術の一部だったようです。今回の展示では、発掘された祈りの痕跡を通じ、古代の人々の水に対する想いを考えるとともに、現代まで続く人々と水との深い関わりの歴史を探ってみたいと思います。
1.水利開発の始まり
弥生時代には水田稲作が開始され、水を引くための長大な水路が掘削されました。南区横手南町付近では、長さ100m、深さ5mに及ぶ水路が掘削されたと考えられ、笠抜(かさぬき)遺跡ではそれに接続する流路と、木で組まれた水利施設が検出されました(写真1)。これを踏襲する水路は現代まで機能し、周辺の田畑に水を供給していました。現在の水利用は、大地に刻まれた長い開発の歴史の上に成り立っているのです。
ただし、土地の開発は自然環境に少なからず負荷をかけてきました。縄文時代の集落は小川や湧水点の近くに立地し、ドングリなどのアク抜きのために、水辺に木を組むなどして水さらし場を設けることもありましたが、上記のように積極的に自然を改変し、水を制御しようという動きは弥生時代から活発化します。この頃、人々が集落の周りを囲むように掘った環壕は、自然界と人間界との線引きでもありました。西区元岡(もとおか)・桑原(くわばら)遺跡群では川の利用を開始するに際し、岸にいくつかの土器を据え置き、地鎮祭をおこなった痕跡が見つかりました(写真2)。自然に介入するに伴い、自然を敬い、畏(おそ)れた弥生時代の人々の姿をみることができます。
2.古代の神話と水
古代の文献をみると、河川の付け替えや溜池の築造を伴う大規模な池溝開発が古墳時代に行われたとわかります。またその頃の祭りの様相を知る上でも、文献に記された神話が参考になります。
例えば、『日本書紀』神代紀には、アマテラスとスサノオが「天真名井(あめのまない)」の水で剣や玉を濯(すす)いで噛んで息を吹き出すと様々な神々が現れる場面があり、このとき生まれた神々の性別によって占いを行っています。遺跡の発掘調査では、井泉や流路から剣や刀形の木製品、土製や石製の勾玉が出土することもあり(写真3)、水辺での占いによって神意を諮(はか)り、今後の行いを決定する政治的儀礼が古墳時代から行われていたようです。
また、水に関わる神話として、『古事記』や『日本書紀』に記されたスサノオのヤマタノオロチ退治は有名です。スサノオは出雲でとある老夫婦と娘に出会います。泣いているので話を聞くと、8人の娘がいたが、頭と尾が8つずつあり、長さが谷8つ、峰8つに及ぶオロチ(蛇)に7人が食べられ、残り1人となったと言います。スサノオは娘を嫁にすることを約束に、オロチ退治を申し出ました。そしてスサノオは老夫婦に作らせた強い酒をオロチに飲ませ、酔いつぶれて眠ったところでオロチを退治します。この神話は、出雲西部を流れる暴れ川である斐伊川(ひいがわ)を大蛇に見立て、古代の地域の有力者が治水灌漑(ちすいかんがい)事業によってこれを制御したことをモデルとする説が有力です。
龍や蛇は水と関わりが深く、そのモチーフは弥生時代の絵画にもみられます。同時期の中国で成立した漢字字典である『説文解字(せつもんかいじ)』には「(龍は)春分に天に昇り、秋分に淵に潜む」という記述があり、元岡・桑原遺跡群で川から出土した壺に線刻された絵画はこの昇龍と伏龍の二体を表現していると考えられます(写真4)。古代中国では雨乞い神事に土で作った龍を用いることがあり、そうした中国思想が弥生時代の日本にも伝わったようです。