役所とハンコ
令和3年4月1日(木)~6月20日(日)
はじめに
福岡市では、平成31年から、申請の際の市民の負担を軽減するとともに、行政手続きのオンライン化を推進しやすい環境を作るため、市へ提出される申請書等の押印義務付けを廃止する、いわゆる「ハンコレス」の取り組みを進めてきました。法律等で押印が義務付けられたもの等を除き、市へ提出される申請書等の押印義務を令和2年9月末で、すべて廃止しました。
当博物館が所蔵する日本最古のハンコ国宝金印「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」が製作された西暦57年から約2千年、役所とハンコには密接な関係がありました。ハンコレスが進んで行く中、「役所」と「ハンコ」の深くて長い歴史を振り返り、新しい時代について考えてみましょう。
中国のハンコ
中国では、春秋(しゅんじゅう)・戦国(せんごく)時代頃からハンコが使われ始めました。統一王朝である秦(しん)や漢(かん)の時代になると、役所や役職・ハンコなどの制度が整備されました。このころのハンコは、粘土に押すために文字部分が彫られており、今のハンコとは凹凸が逆ですが、文字の多くが役職名で、今の役所の「公印」に近いと言えます。日本古代の役所のハンコは、中国のものを模倣して始まりました。
役所前史
福岡のもっとも古い役所的な施設は、早良区有田(ありた)遺跡群・博多区比恵(ひえ)遺跡群で発見されています。これらは『日本書紀』に記載されている、いわゆる「那津官家(なのつのみやけ)」(西暦537年修造)ではないかと考えられています。いわば国立倉庫とよべる建物群です。
また博多区那珂(なか)遺跡群では、当時の日本では極めてまれな、6世紀末から7世紀前半頃の瓦が多く出土し、上級地方官である「筑紫大宰(つくしのおおみこともち)」という役職との関係が考えられています。
役所の成立とハンコ
大宝(たいほう)元年(701)、体系的な法典である大宝律令が完成し、その中で、国―郡―里の行政区画が定められ、国衙(こくが)、郡衙(ぐんが)など、それぞれの役所が各地におかれました。福岡市内では、早良区有田遺跡群で早良郡衙跡が見つかっています。
これらの役所とは別に九州を統括する大宰府が今の太宰府市におかれ、多くの役職や機関も設置されていきました。
また律令では、公文書にハンコを押すことがきめられ、今へとつながる、役所とハンコのルールが定められました。福岡市内では公印の発見はありませんが、「寶(たから)」「好」「開」「酒」の文字が入った私印が4点見つかっています。