天下取りと黒田孝高・長政
令和3年7月6日(火)~9月5日(日)
織田信長(おだのぶなが)・豊臣秀吉(とよとみひでよし)・徳川家康(とくがわいえやす)、三人による天下取(てんかと)りの行方(ゆくえ)を大きく左右した黒田孝高(よしたか)(官兵衛(かんびょうえ)・如水(じょすい))と長政(ながまさ)の親子。本展では、孝高・長政父子の活躍ぶりをゆかりの刀剣・甲冑(かっちゅう)・古文書(こもんじょ)等を通して紹介します。
一 孝高、信長に中国攻めを進言
天正3年(1575)、天下統一を目指す信長が中国地方を治める毛利(もうり)氏と対決すべく西方に勢力を広げようとする頃、当時、播磨(はりま)(兵庫県)の小寺政職(こでらまさもと)に仕えていた孝高は、いち早く信長に味方するよう献策しました。当時、周辺勢力の多くは毛利氏に通じていましたが、孝高は自らすすんで使者となり岐阜城(ぎふじょう)に信長を訪れ、中国攻めの策を進言しました。その時、信長が孝高の才能を見込んで授けたのが刀 名物(めいぶつ)「圧切長谷部(へしきりはせべ)」(図2)です。その後、孝高は中国攻めの大将として派遣された羽柴(はしば)(後の豊臣)秀吉を参謀として支えていきます。
二 孝高、秀吉を天下人に導く
天正10年(1582)、秀吉・孝高等が備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)(岡山市)を水攻めの最中、本能寺(ほんのうじ)の変で信長が斃(たお)れます。孝高は秀吉に毛利氏との和睦(わぼく)をすすめ、即座に畿内(きない)に取って返し、明智光秀(あけちみつひで)を討ち果たします。信長の後継争いを制した秀吉は、四国攻め・九州攻めを行い、孝高は先陣を務めました。天正15年(1585)、九州平定後、孝高は豊前(ぶぜん)国内において六郡を与えられ、中津城(なかつじょう)(大分県)を築きます。
秀吉の天下統一の総仕上げとなったのが天正18年(1590)、小田原城(おだわらじょう)(神奈川県)の北条(ほうじょう)氏攻めです。前年に家督(かとく)を嫡男長政に譲った孝高は、手勢わずか300を率いて参陣し、最終局面で城に乗り込み、北条氏に降伏開城(こうふくかいじょう)を説得しました。この時、秀吉への仲介の礼として北条氏直から孝高に贈られたのが太刀(たち)名物「日光一文字(にっこういちもんじ)」(図3)や北条白貝(しろがい)(図4)・歴史書『吾妻鏡(あづまかがみ)』です。およそ100年間続いた戦国争乱の最終の戦が小田原攻めですから、孝高が戦国時代に終止符を打ったと評価しても過言ではありません。秀吉は留守(るす)を守った長政に書状を送り、「今度(このたび)の首尾(しゅび)、勘解由(かげゆ)(孝高)淵底候(えんていそうろう)」と、孝高の働きにより戦に決着がついたことを知らせています(史料14)。