古代筑紫の特産品
令和3年9月7日(火)~11月14日(日)
大規模な鉄の生産地
筑前国の調のひとつに鉄があります。市内には古代の製鉄遺構が広く分布しており、中でも糸島半島にある元岡(もとおか)・桑原(くわばら)遺跡群(西区)では、国内最大級の奈良時代の製鉄炉群が見つかりました(図3)。遺跡に残る砂鉄などの分析から、製鉄の原料は周辺地域の海岸から採掘した砂鉄だと考えられます。
この遺跡が属した志麻郡には、延暦23年(804)に、「自今以後(じこんいご)、綿の調を停止し、以て鉄を輸(いた)さしめよ」(『日本後紀』)と調の品目を鉄に変更するよう指示が出されていて、平安時代にも、依然として鉄の生産が行われていた様子がうかがえます。
納められた鉄は、武器にも姿を変えたようです。大宰府には戎器(じゅうき)(兵器)を作る役職が常置され、天平5年(733)や貞観11年(869)などの記録には、博多湾警備のために甲冑や武器を備える大宰府の動きが残ります(図4)。
陸の恵み・海の恵み
鴻臚館(こうろかん)は、古代の迎賓館(げいひんかん)として設けられ、船で往来する官人や異国の人が滞在する場となっていました。ここで出土する木簡には「米」、「鹿脯乾(ほじし)」(鹿の干し肉)、「魚鮨」などが書かれ、筑紫ほか各地の豊かな食材を用いた食事が滞在した人々にふるまわれたことが考えられます(図5)。
志賀(しか)の海人(あま)の一日(ひとひ)もおちず焼く塩の 辛き恋をも我(あれ)はするかも ――(『万葉集』巻15‐3652)
これは、都から大陸へ向かう遣新羅使(けんしらぎし)が、道中の筑紫館(つくしのむろつみ)(のちの鴻臚館)で詠んだ歌です。『万葉集』には船で釣りをし、製塩のために火を焚き、海藻を刈る志賀の海人の姿が度々あらわれます。
志賀島(しかのしま)に近い海(うみ)の中道(なかみち)遺跡(東区)では、釣り道具や製塩土器など志賀の海人らの生業に重なるような遺物が多く見つかっています。一方で、皇朝十二銭や金の鍍金(めっき)が残る青銅製の釵(かんざし)など、海人の暮らしの場には似つかわしくない、官人に関わるものも出土していて、貞観11年(869)の記録に残る「津厨(つのくりや)」の可能性が指摘されています。津厨とは大宰府の所管でありながら「離れて別処に居」った港に面する料理所です(図6)
筑紫の名が付くブランド品
しらぬひ筑紫の綿(わた)は
身に着けていまだは着ねど暖けく見ゆ
――沙弥満誓(『万葉集』巻3‐336)
歌にも詠まれた西海道の綿(真綿)は、大宰府に留まらず、都から「貢綿使(こうめんし)」が派遣され、直接都へ運ばれる特別な品物でした。その量の規定は他地域と比べても多かったと考えられ、「筑紫綿」の需要がうかがえます。
別るれば心をのみぞつくし櫛
さして逢ふべきほどを知らねば
――天暦御製(『拾遺和歌集』巻6)
10世紀中頃、村上天皇が肥後に下向する女性・肥前に「筑紫櫛」を贈った際の一首です。平安時代に筑紫の櫛が都でもてはやされていたことを今に伝えてくれます。
少し時代は下り、11世紀中頃に成立した『新猿楽記(しんさるがくき)』には、諸国の名産品が列挙される中に「鎮西(ツクシ)米」が挙げられます。14世紀に成立し、江戸時代まで初等教科書として広く読まれた『庭訓往来(ていきんおうらい)』もまた名産品に「筑紫穀(ツクシコメ)」を挙げ、列島の中でも早くから、この地で米づくりが行われてきたことを思い起こさせます。 (佐藤祐花)