鉄のはなし
令和4年2月1日(火)~4月3日(日)
はじめに
昭和30年代後半から昭和40年代のはじめ、まだ福岡県内で文化財保護行政が確立されていなかった時代に、主に福岡市西部を中心に現地踏査を行い、多くの遺跡や遺物を発見・記録した、在野の考古学者がいました。名前は深江嘉和(ふかえよしかず)。彼の遺した資料・記録類は、福岡市立歴史資料館に昭和48(1973)年度に寄贈され、現在は福岡市博物館で収蔵・保管されています。深江資料の中には、多くの鉄滓(てっさい)や炉壁の破片が含まれていました。今回の展示では、これらを通して、弥生時代から平安時代にかけてのふくおかでの鉄の利用についてご紹介します。
鉄滓との出会い (註1)
鉄の話をしましょう。突然何だ?と思われましたか。まぁ、聞いてください。
私の自宅周辺の山々には古墳がたくさん存在しています(註2)。古墳時代が終わりに近づく頃には、大きな権力をもった人々しか作れない前方後円墳のような古墳のほかに、ある程度の力がある人たちが小さな古墳を作るようになりました。今では木々に覆(おお)われて分かりにくくなっているためか、まだその存在が知られていない古墳もあるのです。私は、そういった古墳を探し求め、日々山を歩き回っていました。
ある日、その途中で何やら茶色く錆(さ)びた塊(かたまり)をたくさん見つけました。ずっしりと重く、鉄のようですが、どれもいびつな形をしていて、何かの製品のようにはとても見えません。しかし、気になった私はそれを持って帰りました。調べてみると、「鉄滓」と呼ばれるものでした。鉄滓とは、鉄や鉄器を作る時に出る廃棄物(はいきぶつ)、いわゆるゴミのことです。
その日以降も、古墳を探している途中に鉄滓を見つけることがありました。なぜこんな山の中にあるのでしょう。
鉄をつくるために必要なものは、鉄の素材、燃料となる木炭(木材)、炉(ろ)を作るための粘土です。日本には、鉄の素材となる鉄鉱石(てっこうせき)の鉱脈(こうみゃく)はあまり多くありません。その代わりに、岩石に含まれている磁鉄鉱(じてっこう)などが細かな粒子となった砂鉄が使われていたようです。波打ち際に砂鉄が寄せて黒い模様をつくる様子は、福岡市西部の海岸沿いでもよく見られる光景です。鉄滓を見つけた場所から海まではそこまで遠くありません。燃料となる木材と、炉をつくるための粘土は山の中では容易に手に入ります。古墳が造られてあまり時間が経っていなければ、近くに作業をするための開けた場所もあるでしょう。私が見つけた鉄滓がどういった形の炉でつくられたものかはわかりませんが、斜面を利用して造られる半地下式の竪型炉(たてがたろ)というものもあります。山の中は、材料の入手のしやすい立地という他に、地形という点からも製鉄を行う条件が揃(そろ)った場所だったのかもしれません。