人形屋嘉平 ―博多人形師 原田嘉平の世界―
令和4年4月5日(火)~ 6月12日(日)
原田嘉平(はらだかへい)(1894~1982)は大正・昭和期を代表する博多人形師のひとりです。その作品は西洋美術から学んだ写実表現を基本としながらも、大正ロマンの雰囲気を感じさせる豊かな叙情性に特色があります。また、「仕事が仕事ば教ゆる」が口癖で、作品には常に「人形屋嘉平」と署名し、生涯職人としての誇りを貫いたことでも知られます。
原田は博多区冷泉(れいせん)町にあった自宅兼工房で作品を制作していました。そこに残された遺品は、夫人のご厚意により、当時開館準備中であった福岡市博物館に寄贈されました。その内容は人形作品のほか、石膏型(せっこうがた)や道具類、下絵、書簡など多岐にわたり、総数は約4,000点にのぼります。また、その後もご家族から追加の寄贈が続いています。
本展示では、館蔵資料の中から昭和初期の「夕映(ゆうば)え」をはじめ、円熟期から晩年にかけての作品をご紹介します。ひとりの人形師の、人生をかけて追い求めた美の世界をご覧ください。
◇ 修業時代
原田は明治27年(1894)に大乗寺前町(博多区冷泉町)で農機具の鋳型を製造していた父共吉、母とみの長男として生まれました。明治42年(1909)、住吉高等小学校を卒業した原田は、15歳で当時名声のあった白水六三郎(しろうずろくさぶろう)に入門し、人形師としての道を歩み始めます。白水工房には8歳年上の小島与一(こじまよいち)をはじめ多くの徒弟が住み込みで働いており、仕事は早朝から深夜に及ぶ厳しいものであったといいます。
当時、白水は人形作りの革新を目指すグループ「温故会(おんこかい)」に参加し、アメリカ帰りの洋画家矢田一嘯(やだいっしょう)や彫刻家の山崎朝雲(やまさきちょううん)らの指導により、西洋美術の写実表現を取り入れようと試行錯誤を試みていました。原田もその影響を受け、明治37年(1904)に福岡市東公園に完成した日蓮銅像の台座レリーフ(矢田一嘯原画)を白水工房の一員として制作し、大正3年(1914)には九州大学の前身である京都帝国大学福岡医科大学で、白水や兄弟子らと共に解剖学の講義と実習を受けています。こうした一連の試みを経て、それまで玩具として扱われていた土人形は一躍美術工芸品へと昇華し、近代化を遂げたのでした。
◇ 大正・昭和初期
原田は9年間に及ぶ修行を終え、大正6年(1917)に独立して大乗寺前町に工房を開いています。当時、日本各地では殖産興業のかけ声のもと、多くの博覧会や共進会が開かれていました。博多の土人形が「博多人形」と称されるようになったのも、明治23年(1890)の第3回内国勧業博覧会が最初とされています。新進の人形師たちは、こうした催しに積極的に参加しながら制作技術や作品の芸術性を高めていきました。原田も独立直後から国内外の様々な催しに出品し、大正14年(1925)にフランスのパリで開かれた現代産業装飾芸術国際博覧会では「浮世絵(うきよえ)文政(ぶんせい)の宵(よい)」が銅牌(どうはい)を受賞しています。
一方、昭和3年(1928)の昭和天皇即位大典では、早良郡脇山村が大嘗祭(だいじょうさい)のための新米を栽培する主基斎田(すきさいでん)に指定され、原田は小島と共に福岡県・市から皇室に献上する人形「早乙女(さおとめ)」を制作しました。昭和11年(1936)の博多築港記念大博覧会でも二人は国防館陸海軍部の展示装飾を担当しています。
この時期の博多人形には、浮世絵や日本画を題材にした繊細で叙情的な作品が多く見られます。夕涼みをする女性をあらわした原田の「夕映(ゆうば)え」(4)も、夢見るような表情が儚はかなげな昭和初期の作品で、竹久夢二(たけひさゆめじ)の作品に通じる「大正ロマン」の雰囲気を残しています。
太平洋戦争中の昭和17年(1942)には、原田は博多人形工業組合の理事長に就任しています。当時、人形は厳しい物資統制の中で贅沢品と見なされ、優秀な人形師も兵士として戦地に送られるなど、業界は存続の危機に直面していました。原田はそうした中で商工省と粘り強く交渉し、「人形技術保存適格者」の制度を国に認めさせています。
終戦前後は疎開先を転々とする生活が続いて経済的にも困窮する中、「漁夫(ぎょふ)」(6)のような「PX人形」と呼ばれる進駐軍向けの風俗人形の制作に携わっています。また、その一方で西戸崎(さいとざき)(福岡市東区)の米軍キャンプの子どもたちに人形作りを教えることもありました。