人形屋嘉平 ―博多人形師 原田嘉平の世界―
令和4年4月5日(火)~ 6月12日(日)
◇ 昭和3・40年代
戦後の混乱もようやく収まりつつあった昭和27年(1952)、原田は大乗寺前町の旧地に戻り、再び活発な創作活動を始めます。
昭和30年代には、娘婿をモデルに当時流行のテーマを取り入れた「攀(のぼ)る」(10)や、海辺でカニと戯れる孫娘をモデルにした「子供(こども)とカニ」(13)など、身近で愛情あふれる作品を残しています。その一方、難解な禅の悟りとユーモアをテーマとした「達磨(だるま)」(8)や、作家寿命を縮めると言われて敬遠された仏像作品にも果敢に挑んでいます。
昭和40年代になると、「神功皇后(じんぐうこうごう)」(15)や「母里太兵衛(ぼりたへえ)」(18)といった郷土の歴史にまつわる作品を残しています。これらを制作する際、原田は参考文献を読み込むと共に装束にも可能な限り時代考証を加えるなど、リアリティへの強いこだわりを見せています。
なお、博多人形師の重要な仕事の一つに博多の夏祭り、博多祇園山笠の人形制作があります。原田も毎年これに携わりましたが、昭和39年(1964)には高さを調節できる山を考案し、明治以来途絶えていた「走る飾り山」の復活に貢献したことが特筆されます。
◇ 晩年の作風
昭和41年(1966)11月、原田は福岡市を訪問中の皇太子妃殿下(現上皇后陛下)の御前で「浩宮殿下(ひろのみやでんか)ダルマ運(はこ)び」(21)を制作する栄誉に浴しています。また、同年12月には小島与一(こじまよいち)、中ノ子(なかのこ)タミ、置鮎与市(おきあゆよいち)、白水八郎(しろうずはちろう)と共に博多人形師として初めて福岡県の無形文化財保持者に認定されました。
晩年は名実ともに博多人形界の長老となり「もう落ちてよかろう吊るし柿」と自嘲しながらも、なお優れた作品を残しています。「月琴(げっきん)」(29)は若い頃から得意としていた八頭身の美人もので、無駄を削ぎ落した枯れた洗練味が加わっています。また、平安時代の説話に取材した「白箸(しらはし)売(う)りの翁(おきな)」(30)は、かつて師匠の白水も制作した作品で「自分も漸(ようや)く先生の心境が判る年齢になって、この作品を作ることができた」と語っています。
こうして最晩年まで研鑽を続けた原田は昭和57年(1982)にこの世を去りますが、周囲の勧めにもかかわらず生前ついに個展を開くことはなかったといいます。職人としての生き方を貫いた88年の生涯でした。 (末吉武史)