死の考古学
令和4年4月5日(火)~ 7月10日(日)
死は誰にでも訪れるもの。ときに、様々なきっかけで身近に感じるようになります。例えば、重い病の発症、親しい人やペットの死、あるいは老いや子どもの誕生…。昨今の新型コロナウイルス感染症の流行も、私たちに忍び寄る死の影を感じさせるものでした。
古代において、戦乱や飢饉(ききん)・疫病(えきびょう)などにより、死は今よりもずっと身近だったことでしょう。過去の人々は死とどう向き合い、そして生きたのでしょうか。本展示では、主に考古資料を通し、人々と死の関係を考えます。死は恐ろしく、目を背けたくなるものではありますが、それに敢(あ)えて向き合うことで初めてみえてくる過去の人々の精神世界があるはずです。死を少し身近に感じる今だからこそ、死ぬこと、そして生きることを、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。
1.動物の死
旧石器時代(きゅうせっきじだい)、日本列島に渡ってきた最初の人類は石器を携(たずさ)えた狩人(かりゅうど)でした。彼らは自らの手で動物や魚を仕留(しと)め、解体し、肉は食料として、毛皮は衣類などに利用しました。多くの人が動物の死に直接的に関わる生活は、その後の縄文時代(じょうもんじだい)以降もしばらく続くことになります。
今から少し前までは、各家庭で鶏を絞(し)め、祝(いわ)い事(ごと)などで振舞(ふるま)うこともありました。しかし、今では自ら動物に手をかける機会は少なくなり、魚をさばいた経験がある人も減ってきています。人々にとって動物の死でさえも、遠い存在になりつつあるということかもしれません。
2.子どもの死
現在、日本人の平均寿命は84歳程度となっています。しかし、弥生(やよい)時代(じだい)のそれは20歳代前半くらいと考えられており、寿命からも死との距離感が現代とまったく異なっていたと想像されます。
平均寿命を著(いちじる)しく低下させた要因の一つが、子どもの死です。弥生時代、九州北部の主要な墓制のひとつは土器(どき)を棺(ひつぎ)とする甕棺墓(かめかんぼ)で、その中には、子ども用の小型棺が認められます(写真1)。博多区金隈(かねのくま)遺跡の例をみると、発掘された348基の甕棺の中で小型棺は約6割を占め、子どものうちに亡くなることが非常に多かったとわかります(下表)。
なお、縄文時代の出土人骨の分析では、15歳を過ぎて亡くなった人の死亡年齢は男性では30歳代前半に、女性では20歳代前半にピークがあり、特に女性が若くして亡くなっていたとされます。出産に関わる死が影響したと考えられます。
3.戦いのはじまり
平均寿命を低下させた要因は、他にどのようなものがあったのでしょうか。ここからは具体的な死因をみていきます。
弥生(やよい)時代(じだい)が始まると、日本列島で初めて対人用の武器が出現します。大陸から水田稲作文化が伝わるに伴い、貯蓄(ちょちく)した食料や水を巡(めぐ)る集団間の戦いが起こったと考えられており、墓からは折れて体内に残った剣の切(き)っ先(さき)や矢じり、あるいは武器によって傷を受けた人骨が出土することもあります(写真2)。また、有力者らの墓への武器の副葬(ふくそう)も始まり、武力を尊(たっと)び、称(たた)える社会の萌芽(ほうが)も窺(うかが)えます。
古墳時代、日本列島の大部分を政治的にまとめた倭政権(わせいけん)は朝鮮半島へ多くの兵士を派遣(はけん)します。当時の日本は友好関係にあった百済(くだら)や伽耶(かや)地域から様々な先進技術を受容しており、その見返りとしての軍事支援だったとの見方もあります。大陸での戦いを通し、倭は本格的な集団戦を知りました。武器もより実用的に、殺傷性の高いものに変わっていきます。
こうした変化を経て、527年、九州の豪族(ごうぞく)である磐井(いわい)が倭政権に反旗(はんき)を翻(ひるがえ)し、九州北部の広い範囲を揺るがす内戦に発展します(いわゆる「筑紫君(ちくしのきみ)磐井の乱」)。新羅(しらぎ)と通じた磐井が、倭政権の朝鮮半島への派兵を妨げたものとされますが、急速に進められた中央集権化への抵抗の表れだったともされます。