死の考古学
令和4年4月5日(火)~ 7月10日(日)
4.飢(う)えと疫病
古代の文献史料には、飢饉(ききん)や疫病(えきびょう)の流行に関わる多くの記事がみられます。 例えば、『日本書紀(にほんしょき)』推古紀(すいこき)には、「長雨が降って人々は大いに飢(う)え、老人は草の根を食べて道端(みちばた)で死に、幼児は乳にすがって母とともに死んだ」とあります。『日本書紀』の内容を全て鵜呑(うの)みにはできませんが、中~近世にも、数万~数十万の人々が犠牲(ぎせい)になった飢饉が度々(たびたび)発生しており、古代にも同様の事態が起こったことは確かでしょう。
疫病に関しては、奈良時代(ならじだい)に天然痘(てんねんとう)が筑紫(ちくし)で発生し、西日本全域に感染拡大したことが知られ、死者数は100~150万人に及ぶともされます。この頃、疫病の流行に関連し、人形(ひとがた)や人面墨書土器(じんめんぼくしょどき)を用い、罪(つみ)や穢(けが)れなどを込めて水に流す祭祀(さいし)が行われました(写真3)。また、外国の使節(しせつ)が来訪(らいほう)する対外交流(たいがいこうりゅう)の要地(ようち)においては、「道塞」墨書木簡(ぼくしょもっかん)や男根形(だんこんがた)木製品などを用いて結界(けっかい)を張り、疫病等の侵入を防ぐ祭祀が行われました。
5.死者と生きる
古代中国では、不老不死を目指す神仙思想(しんせんしそう)が戦国時代(せんごくじだい)に発生し、秦(しん)・漢(かん)の時代に流行が拡大しました。その思想は日本列島にも流入し、弥生(やよい)時代(じだい)の九州北部において、遺体保存の意識が強く窺(うかが)える甕棺(かめかん)墓(ぼ)が盛行する背景にも、その影響があるとの見方もあります。日本列島の墓制(ぼせい)や死生観(しせいかん)は、中国思想や仏教などの影響を受けつつ変容していきました。
弥生時代の墓地の中には、甕棺墓や木棺(もっかん)墓(ぼ)などが2列に長く連(つら)なる例がみられ、道を挟(はさ)んで両側に墓を配置したものと考えられます。その計画性の高さには、親族集団(しんぞくしゅうだん)の中での死者の位置付けを再確認し、死者と生者の一体的な共同関係を表そうとする意図(いと)が窺えます。
古墳時代(こふんじだい)になると、多数の労働力を動員し築造(ちくぞう)される古墳が地域共同の象徴(しょうちょう)となるとともに、前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が首長(しゅちょう)の墓制として日本列島の広い範囲で共有され、政治的結束(けっそく)の象徴にもなります。こうしたシンボルとしての古墳、つまり墓の存在は、当時の人々に死者の存在を日常的に意識させ、敬意(けいい)や畏怖(いふ)の念(ねん)を抱(いだ)かせるものになったと考えられます。
古墳時代の後半には、古墳の埋葬施設(まいそうしせつ)として横穴式石室(よこあなしきせきしつ)が普及します(写真4)。従来の竪穴系(たてあなけい)の埋葬施設とは異なり、ここでは最初の人物が埋葬された後も、時間をおいて複数の人物が追葬(ついそう)されました。追葬時、人々は腐敗(ふはい)した遺体(いたい)を目にすることになりますが、「ヨモツヘグイ」を彷彿(ほうふつ)させる飲食物の供献儀礼(きょうけんぎれい)を初めとする祭祀(さいし)は、一つの古墳においても世代を越え、数十年にわたり行われます。こうした長期の祭祀は、当時の人々が死者との関係を維持し、祖先からの系譜を、自らの存在を保証するものとして大切にしていたことの表れでもありました。
古代の人々にとって、死が今よりもずっと身近な存在だったことをみてきました。一方で、死を考えることは生を考えることでもあり、「生」との距離感も近かったのではないかと想像します。古代の人々が、より強く「生きることの力」を感じ取っていたのだとしたら、現代を生きる私たちが、そこから学ぶことも多いように思います。(朝岡俊也)