はかた伝統工芸館連携企画 手仕事の美と技2-曲物-
令和4年6月14日(火)~8月15日(月)
● 近代以降の博多曲物
明治12(1879)年に刊行された『福岡県物産誌』を見ると、当時の博多曲物の様相が見えてきます。例えば、「杉桧ノ板材木自国ニ少キ故隠岐因幡能登対馬等ノ諸国ヨリ輸入」しており、北陸や山陰地方、対馬などから材木を仕入れ、加工した製品は「九州地方ニテ筑後肥前平戸唐津長崎壱岐対馬等」、九州各地に輸出されていたことが分かります。
また、明治5〜8年にかけて編纂された『福岡県地理全誌』には馬出の特産品として、砂糖曲(がが)(砂糖入れ) 、飯入(飯櫃)、菓子箱、柄杓、糀(こうじ)入れ、折敷(おしき)、三方(さんぽう)が挙げられ、当時の主力だった製品構成がうかがえます。
この製品構成を変えたのが、日本が近代化を遂げるために始めた鉄道の敷設(ふせつ)でした。明治21(1888)年に九州鉄道会社が認可され、鉄道網が延びた結果、長距離の旅客のための駅弁用の折箱の需要が次第に伸びていきました。昭和10(1935)年刊行の 『箱崎商工録』に掲載された「無限責任馬出曲物信用販売購買利用組合」の広告には製造販売品に「鉄道省指定弁当折箱」や「各種料理用折箱」とあり、折箱の需要が高かったことがうかがえます。鉄道の発達が博多曲物にとって一つの転機となりました。
しかし、さらに時代が下るにつれ、アルミやプラスチックなどの安価な容器や電化製品等が普及すると、曲物の需要が激減します。明治初期に約40軒、昭和初期に約20軒あった曲物店が次々と業態の変更や閉店を余儀なくされました。
馬出の街並みから曲物店が消える中、昭和50年代になると伝統工芸品として注目されます。それは昭和29(1954)年に民芸研究家の柳宗悦(やなぎむねよし)が小鹿田(おんた)(大分県日田市)と小石原(こいしわら)(朝倉郡東峰村)の窯元を訪れていたイギリスの陶芸家バーナード・リーチとともに、馬出の柴田玉樹商店を訪れたことに端を発しています。柳は博多曲物を、「ごく手堅い職人気質の残る仕事で、その出来栄には見事なものがあります。」と評しています。
また、昭和51(1976)年に、柴田徳商店の徳五郎氏が樅(もみ)で作った「曲物盆」がGマーク商品(通産省グッドデザイン選定商品)に選ばれたことも、工芸品としての地位の確立につながりました。
その後、昭和54(1979)年に福岡県知事指定特産民工芸品に指定され、昭和56(1981)年に福岡市無形文化財に指定されたと同時に、大神章助氏・柴田玉樹氏・柴田徳五郎氏の3人が技術保持者として認定されました。
現在、玉樹氏の娘・真理子氏が、徳五郎氏の娘・淑子氏がそれぞれ家業を継ぎ、その伝統を守り続けています。
● 道具と製作工程
曲物の製作は材木の選定と製材から始まります。まず、木目の流れを見て、長さや幅を確認して板を選びます。板の両面を粗削りし、表面を0.1ミリずつ調整しながら削ります。その後、マチ(板を曲げた時に両端の重なる部分)を作ります。重ね合わせた時、全体と同じ厚さになるようにマチの表面を削ります。
次に釜で湯を沸かし、沸騰してきたら仕上げた薄板を入れて煮ます。この工程は、薄板を柔らかくするとともに、灰汁(あく)を抜くために行われます。薄板が柔らかくなったら、素早く引き上げ、円筒形の巻木(まきぎ)に巻き付けて曲げます。柴田徳商店では、昭和10(1935)年に4代目・徳三郎氏が考案して特許を得た、「三本ロール」という曲げ付け機を使って薄板を曲げます。その後、マチを重ね合わせて木挟(きばさみ)ではさみ、留具(とめぐ)で仮止めし、4〜5日ほど室内で自然乾燥させます。
乾燥後、マチに糊を塗り、乾いたら縫錐(ぬいぎり)で孔(あな)をあけ、桜の皮で綴じ合わせます。最後に底板をはめ、仕上げに磨きをかけて完成です。