動く海の中道-消えゆく遺跡-
令和4年7月12日(火)~ 10月23日(日)
Ⅲ 海とともにあった人々のくらし
奈多砂丘B遺跡では、甕(かめ)や壺(つぼ)、高坏(たかつき)、鉢等の調理や食事に用いる土器や、鉄の道具を研(と)いだ砥石(どいし)が出土しました。ほとんどが弥生時代から古墳(こふん)時代への過渡期(かとき)のものです。あわせて、イイダコを捕るためのタコ壺や、石や粘土でつくったおもり等も見つかっています。このことから、農耕に向かない砂丘で、人々は漁労を中心にくらしていたと推測されます。
現在の遺跡周辺の海岸は波と風が強く、人が生活するには厳しい環境のように思われます。しかし、当時の人々はこのような波打ち際で生活をしていたわけではありません。弥生時代の海岸線は現在よりも北側(現在は海中)にありました。人々は海岸に最も近い砂丘の裏側の、波風を避けられる場所に生活の拠点をおいていたことが、これまでの発掘調査からわかっています。
また、この遺跡からは、朝鮮半島南部や瀬戸内西部、九州南部等から持ち込まれたり、これらの地域の土器の文様(もんよう)や形をまねてつくられたと考えられる土器が複数出土しています。博多湾周辺の遺跡では、弥生時代の後半から古墳時代にかけて、朝鮮半島や瀬戸内、山陰、近畿、東海の各地域の土器が多く出土するようになりますが、奈多砂丘B遺跡の他地域系の土器は類例が少ないものもあり、今後検討が必要な資料といえます。
Ⅳ 草原で活躍した狩人
奈多砂丘B遺跡の周辺では、縄文時代よりもさらに古い時代の旧石器が採集されています。そのほとんどが槍(やり)の先にとりつけて用いる狩猟の道具です。
このうち、「ナイフ形石器」は、日本の旧石器時代を代表する石器で、さまざまなタイプのものが見つかっています。また、「剥片尖頭器(はくへんせんとうき)」は、安山岩(あんざんがん)等でつくられることが多い石器ですが、奈多砂丘B遺跡のものは黒曜石(こくようせき)を材料としている点が特徴です。
奈多砂丘B遺跡では、石器づくりに必要な材料や、石器づくりの過程で生じた欠片がほとんど見つかっていません。このことから、当時の遺跡周辺は、石器をつくったりするような日常生活の場ではなく、一時的に訪れる狩りの場であったのかもしれません。
遺跡周辺で旧石器時代の狩人が活躍したのは、3万~1万4千年前頃の氷河期でした。最も寒冷であった2万年前頃には、海面は現在よりも100~140メートル低かったとも考えられており、海岸線ははるかかなたにありました。海の中道から北側をのぞむと、広がっているのは玄界灘(げんかいなだ)ではなく、広大な草原だったのです。(松尾奈緒子)