防人(さきもり)たち
令和5年1月17日(火)~4月23日(日)
「沖つ鳥 鴨とふ舟の 還り来ば 也良の崎守 早く告げこそ」
(万葉集 巻6・三八六六山上憶良)
(帰らぬ人となった志賀の荒尾が乗った)鴨という名の船が帰ってきたら、也良(やら)(能古島北端の岬)の崎守(防人(さきもり))よ、早く知らせてください
はじめに
西暦663年、朝鮮半島西岸の白村江(はくそんこう)で、日本と百済(くだら)の連合軍が唐(とう)と新羅(しらぎ)の連合軍に敗れました。白村江(はくそんこう)の戦いです。戦いに敗れた日本を率いていた中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、唐と新羅が攻めてくるのを警戒し、北部九州などに山城や土塁(水城(みずき))などを築き、防御態勢をとりました。さらにこの地を守る兵士として防人を配置し、主に東国から多くの人を派遣しました。派遣期間は3年で、その費用は自費負担の部分も多く、また途中で亡くなる人もいました。単身で危険と隣り合わせの辛い心情を詠んだ「防人歌」が、万葉集には多く収録されています。
鎌倉時代には、2度にわたる元軍の襲来に備えて、多くの武士が北部九州に集められました。元軍に対する武士の活躍を描いたものが「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」で、その主人公は肥後(ひご)(現在の熊本県)の武士、竹崎季長(たけざきすえなが)です。
また太平洋戦争末期には、米軍の九州上陸に備え、各地から九州に集められた部隊の中に東北から移動して来た部隊もありました。
この展覧会では、戦争に伴って福岡周辺を守るために各地からやってきた人々の痕跡を、探ります。
1 古代の防人と俘囚(ふしゅう)
福岡市博多区の最南端にある雑餉隈(ざっしょのくま)遺跡では、奈良時代の竪穴住居(地面を数十㎝掘り下げて床にする住居)跡が多数発見されています。市内の同時代の遺跡では、ほとんどが地面を掘らずに土間とするか、地面より高い床を作った建物(掘立柱建物)であることから、雑餉隈遺跡は、特異な集落と考えられます。
見つかった竪穴住居の中には東北地方と似たものがあり、出土した土器も同様であることがわかってきました。これらの住居の住人は、東北地方にいた「俘囚(ふしゅう)」と呼ばれた人々ではないかと考えられます。
奈良時代から平安時代、朝廷は東北地方に住んでいた人々(蝦夷(えみし))を支配し、俘囚と呼びました。神亀2(725)年、陸奥国の俘囚578人を「筑紫(ちくし)」に移住させたのをはじめとして、朝廷は数度、筑紫や大宰府管内諸国など全国に分散移住させました。その中には防人として配された人もあり、鴻臚館(こうろかん)や博多警固所(けごしょ)に配された人もいました。蝦夷の力を軍事面に使ったことが窺われます。
雑餉隈遺跡は、大宰府と博多・鴻臚館を結ぶ官道沿いにあり、大宰府の防衛線である水城にも近く、俘囚を含む防人たちの居住地だったかもしれません。
防人が配された飛鳥時代から平安時代に、唐や新羅の軍隊は攻めてきませんでしたが、平安時代の中頃に、新羅の海賊や現在の中国東北地方にいた刀伊(とい)が北部九州沿岸に侵攻し、対馬や壱岐などに大きな被害をもたらしました。