変わり兜展5―新収蔵の甲冑と武具―
令和5年3月14日(火)~ 5月28日(日)
はじめに
令和3年度までの約10年の間に本館に収蔵された甲冑・武具の資料のなかから、福岡藩士の持っていた変わり兜を中心に、江戸時代以降の甲冑を展示し、その変遷(へんせん)や特徴(とくちょう)を紹介していきます。
また幕末の甲冑と合わせて収蔵した、軍装(ぐんそう)や被(かぶ)り物、幕末の槍(やり)や鉄砲(てっぽう)といった実戦(じっせん)の武器、それを使うために学ぶ武芸書(ぶげいしょ)などもあわせて展示し、福岡藩の武家の歴史と文化を紹介します。
伝統的な兜と珍しい飾りたち
古来、日本の武士の兜は、鉄板を継ぎ合わせて形が作られました。平安(へいあん)時代は繋ぎ目を留める鋲(びょう)が大きな星に見える星兜(ほしかぶと)でしたが、その後の室町(むろまち)時代には、繋ぎ目が筋に見える筋兜(すじかぶと)も生まれます。ただ鉄板の数はせいぜい16枚(16間(けん))程度でした。
しかし戦国時代中頃から江戸時代初め、兜製作の技術も進み、鉄板も細く、数も64枚(64間)などと多くなり、継目の重なる部分が増えて防御(ぼうぎょ)力に優(すぐ)れた筋兜が出現します。また同様に間数(けんすう)の多い星兜の鋲は小さく尖(とが)るようになり、小星(こほし)とも呼ばれました。
福岡藩士は、黒田家に従い入国した播磨国(はりまのくに)(現兵庫県)出身者はもとより、諸国の古い武家(ぶけ)の出自(しゅつじ)で、流浪(るろう)のすえ黒田家に仕えた者の子孫も多いため、先祖から伝わった伝統的な兜を持つ家が多くあります。これらの兜は江戸時代でも家紋(かもん)を象った立物(たてもの)(飾り)で家の区別をつけていましたが、なかには動物、植物、天文現象(てんもんげんしょう)、神仏、吉祥(きっしょう)の文様(もんよう)など個性的なものもありました。
上級武士になると、戦場で大いに目立つよう、華やかで大きな脇立(わきたて)、後立(うしろたて)、頭立(ずたて)などを付けました。黒田家を創成期(そうせいき)から支(ささ)えた家臣で黒田二十四騎(にじゅうよんき)の一人、桐山丹波(きりやまたんば)の星兜は、梵字(ぼんじ)前立、蟹鋏(かにはさみ)の脇立に加え、豊臣秀吉(とよとみひでよし)から武功(ぶこう)を褒(ほ)められて許された、金泥(きんでい)塗(ぬ)りの瓢箪(ひょうたん)の頭立などをつけた、豪華なものです。
福岡藩の変わり兜いろいろ
戦乱が激しくなる戦国時代の中頃には、製作(せいさく)が簡単でしかも防御力のある、当世具足(とうせいぐそく)とよばれる新しい作りの甲冑が登場しました。特に兜は従来と異なり、何枚かの曲がった鉄板を、頭の形に組み立てる頭形(ずなり)や、桃の形に組み立てる桃形(ももなり)などが生まれ、大量に供給(きょうきゅう)されました。そのため名のある武士は個性的な立物を求め、その例は戦国期の黒田家の家臣井手友氏(いでともうじ)の肖像などに見ることができます。
藩が下級家臣への貸し出す揃いの兜は統一されることもありますが、特定のタイプが家臣の間で流行することもありした。福岡藩では、初代藩主(しょだいはんしゅ)黒田長政(くろだながまさ)が水牛角の脇立を持つ桃形兜を愛用したため、それにあやかる家臣が多くみられます。2代藩主忠之(ただゆき)の側近(そっきん)小河家(おごうけ)伝来(でんらい)の桃形兜は、金泥(きんでい)脇立と軍扇(ぐんせん)前立を持つ派手なものです。
さらに時代も進むと、変わり兜には、紙や木などで奇妙(きみょう)な形や面白い形を作り漆で固め、鉢に被せて一体化した、張懸(はりかけ)手法で作られた兜も現れます。小河家に伝わったのは鋭く立ち上がる波頭(なみかしら)の様な奇抜(きばつ)な造形(ぞうけい)の兜です。
変わり兜と一体となる胴は、桶側胴(おけがわどう)が有名です。漆で固めた革(かわ)板や鉄板を、鋲(びょう)留(ど)めや革紐(かわひも)綴(と)じによって、桶のような外観に組み上げました。胴は前後(背)2つに分かれ脇を蝶番(ちょうつがい)でつなぐ2枚胴が普通ですが、上級武士用に、やや箱状で打撃(だげき)に強い5枚胴も作られました。また鉄砲や槍の攻撃から、籠手(こて)や佩立(はいたて)、脛当(すねとう)で全身を守りました。