殿様からの贈り物
令和5年3月21日(火・祝)~5月21日(日)
治者としての務めに対して
関ヶ原合戦での勝利により豊臣政権内での地位を固めた徳川家康は、慶長8年の征夷大将軍就任と同10年の徳川秀忠(ひでただ)の2代将軍就任、同19年から翌20(元和(げんな)元)年にかけて行われた大坂の陣を経て、徳川氏と江戸幕府による全国支配を確実なものにしました。
寛永(かんえい)14(1637)年から翌15年にかけて、九州の諸大名も参陣した島原の陣が発生しましたが、その後、幕末期に至るまで国内で大規模な戦いが行われることはなく、武士に求められる役割は次第に変化していきました。諸大名は、自らの領内の統治のために法令や支配機構の整備を行い、家臣たちは、その下で武芸よりも政治的・官僚的な役割を次第に担うようになっていきました。
福岡藩の藩士は、知行高や扶持高に対応した軍団組織に編成され、領内の警備や長崎港の警備など、番方(ばんかた)と呼ばれる軍事的な職務を務める一方で、能力に応じて役方(やくかた)と呼ばれる政治や財務など行政関係の役職を務める者もいました。
また、学問をもって藩に仕える儒学者や藩の医術を担う医師、藩主の命による画業や絵図の作成に携わる御用絵師、船方や大筒役など軍方に関わる家臣など、専門的な技術によって藩に仕える者もいました。彼らは一般の藩士とは区別して「家業(かぎょう)」と呼ばれ、代々家職として専門の役職を担いました。
ここまで述べてきた通り、江戸時代の福岡藩士が担った役職や役割は多岐にわたりましたが、長年にわたって役職を務めてきた者や、秀でた功績や成果を残した者などに対して、藩主から品物が贈られることがありました。また、職務の上で近しい関係にあった家臣にも、殿様から贈り物が贈られる場合がありました。
藩への貢献に対して
城下の福岡・博多をはじめとする領内で商売を営んだ商人や、各村の村政運営や年貢収納の一端を担った大庄屋や庄屋、組頭などの村役人に藩主から品物が贈られることがあります。
福岡湊町(みなとまち)(福岡市中央区港周辺)で酒造業を営んでいた加瀬元春・元将(かせもとはる・もとまさ(ゆき))父子が書き残した記録「加瀬家記録」(展示番号21・22)には、代々の当主が寸志米や御用銀の献上など、福岡藩に対して行った貢献が数多く記載されています。この貢献に対し藩は苗字を名乗ることを許したり、扶持米を与えたりしていることが記述内容から知ることができます。
早良郡姪浜村(さわらぐんめいのはまむら)(福岡市西区)の廻船問屋で酒造業や醸造業なども営んでいた石橋家には、黒田家の家紋である藤巴紋が入った麻裃(かみしも)(展示番号23)が伝えられています。この裃は、収められていた木箱の蓋裏の墨書から、御用銀を献上したことに対する称誉として、文久(ぶんきゅう)3(1863)年に石橋善左衛門(いしばしぜんざえもん)が拝領したものであることが分かります。
このように様々な形で貢献した人びとに対し福岡藩や藩主は、褒め称えるという名目で、実際に品物を贈ったり、格式や名誉を与えたりするなど、色々な形の「贈り物」をすることで応えようとしたのでした。(髙山英朗)