地図と絵で見る海と船の福岡藩展
令和5年7月11日(火)~9月3日(日)
江戸時代(1600〜1867年)、筑前(ちくぜん)福岡藩(ふくおかはん)の水軍(すいぐん)の軍船や、民間の廻船(かいせん)などの船は、城下や博多湾岸を出発し、玄界灘や瀬戸内海を航海し、中には、太平洋や日本海を経て江戸、さらには蝦夷地(えぞち)などにまで及んで、人や物を運び様々な活躍を見せました。今回は地図や絵画、模型などを使って、当時の船と航海(こうかい)や海運(かいうん)の様子、そして江戸時代の海を巡る社会や経済、文化を紹介します。
江戸時代の海の道と福岡藩
慶長(けいちょう)5(1600)年の関ケ原合戦の戦功で、黒田長政(くろだながまさ)は筑前ほぼ一国を与えられ、福岡城と城下町を建設、新しい時代が始まると、江戸への参勤交代(さんきんこうたい)が始まりました。長政は、江戸滞在(たいざい)のため、また幕府の命による大規模な城普請(しろぶしん)などのため、必要な人員や物資を、それまでの京都・大坂だけでなく、江戸まで運ぶ必要が生まれ、以後の福岡藩には水軍や海運業の力が欠かせなくなりました。また当時、徳川幕府はまだ鎖国(さこく)体制をとっておらず、長政は博多商人大賀(おおが)氏を通じて東南アジアへ朱印船を送り、貿易を行っていました。
17世紀前半の2代藩主黒田忠之(ただゆき)の時代には、幕府のキリスト教禁令と鎖国政策を進めるため、福岡藩は佐賀(さが)藩と交代で長崎港(ながさきこう)の警備を行うよう命じられ、警備に当たっては、福岡から長崎に兵員や物資が送られました。そして17世紀後半には、福岡の荒戸山(あらとやま)下に波戸(はと)が築かれ、波奈(はな)港の整備が進みました。「福岡図巻(ふくおかずかん)」(資料八)はこのような藩の水軍による組織や輸送(ゆそう)体制が完成した18世紀始め頃の福岡を描いています。また「海道絵図(かいどうえず)」(資料10)は江戸前期ごろの、まだ海路も少ない玄界灘(げんかいなだ)を描いています。船も船尾(せんび)に楼(ろう)や櫓(やぐら)を持ち、筵帆柱(むしろほばしら)が中央前よりに立つ古い形です。福岡藩には若松(わかまつ)などに水軍の基地があり、沿岸の各所に異国船(いこくせん)接近を見張る遠見番所(とおみばんしょ)などが整備されました。沿岸には朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)の乗った船団、琉球使節(りゅうきゅうしせつ)の船団等が通る航路もあり、福岡藩水軍は領海内での護衛を幕府から命じられています。
福岡藩主の海の旅をたどる
江時代中期ごろ、福岡藩主の船旅が最も盛んだった時期の航路をたどってみます。参勤交代で江戸にいる福岡藩主は、3月ごろ将軍から国元(くにもと)への帰国を許され、まず東海道を、富士山(ふじさん)を仰ぎ見ながら陸路で京都へ向かいます。京都からは淀川(よどがわ)を川船で下り、大坂で迎えの御座船(ござぶね)に乗り、瀬戸内海を一路、九州に向かい大里(現北九州市)などに到着します。福岡藩主の御座船は60挺(ちょう)の櫓で進む大型の関船(せきぶね)で、掲(かか)げられた水軍の旗は、茜地(あかねち)に白餅(しろもち)でした。
福岡到着後は、今度はオランダ商船入港の時期に、福岡城下の海辺から御座船(ござぶね)に乗り、玄海灘を長崎へ巡見(じゅんけん)に向かいました。この藩主巡見はオランダ商船入港中に年3回ほどあり10日ばかり滞在しました。長崎港を守備する家臣たちは、4交代制(こうたいせい)で駐留し、中・小型の関船で往復しました。なお海路の藩主巡見は4代藩主黒田綱政(つなまさ)の頃に中断され、以後は陸路が取られました。