地図と絵で見る海と船の福岡藩展
令和5年7月11日(火)~9月3日(日)
発展する海の道と筑前の廻船
江戸時代の前半には、徳川幕府は江戸や大坂へ物資輸送の必要から、全国航路の整備にかかり、河村瑞賢(かわむらずいけん)に日本海側と大坂を結ぶ西回り航路や、東北地方と江戸を結ぶ東廻り航路を整備させました。筑前や九州各地と大坂を結ぶ瀬戸内海の航路は、特に重要な航路として日本初の海路図も刊行され、装飾屏風にもなっています。展示した「西海道筋海路図屏風」(資料23)からは天下の台所、水の都といわれた大坂の町中に運河が引かれ、沖合には諸国の船が停泊する様子がわかります。
さらにこれら全国の航路網をいち早く利用し、いっそう発展させたのが、博多湾の5つの浦を基地にした廻船集団・五ヶ浦廻船です。もともと五ヶ浦は黒田長政の時代、上方や江戸への物資輸送に活躍したのが始まりとされ、福岡藩の年貢米輸送を独占的に任(まか)されました。しかも18世紀前半の享保(きょうほ)年間までに五ヶ浦廻船は、日本海側から太平洋へ廻って、幕府の年貢米「御城米(ごじょう まい)」を、徳川将軍のお膝元(ひざもと)で大消費地の江戸へ運ぶ事業にも進出しました。江戸時代中期には、発達した全国の海運の航路網を示す図が木版で出版され、船乗りたちに珍重されました。この時期、船も海運専用のいわゆる弁財船(べんざいせん)が出現します。船体の長さは約30メートル、幅約10メートル、胴の太い形状で、一本帆柱にじょうぶな木綿(もめん)製の帆をあげ、一度に千石(せんごく)(150㌧、約3000俵)以上を輸送できました。五ヶ浦廻船には1500石から2000石の大型弁財船が多数あり、大船団を組み、優(すぐ)れた航海術により、波の荒い太平洋側でも活躍しました。
ただ太平洋で活躍した五ヶ浦廻船のなかには、悪天候で遭難(そうなん)し、はるか遠くまで漂流(ひょうりゅう)した船もありました。最後はフィリピンへ流れつき、苦心の末、オランダ船で長崎へ届けられた水夫・孫太郎(まごたろう)(孫七)の話もあります。ただ18世紀なかばのこの事件以降、五ヶ浦廻船の活動は制限され、藩の年貢米の輸送請負も、19世紀前半の天保(てんぽう)年間ごろまでには衰退してしまいました。しかし筑前の海運業はその後も、米だけでなく、多くの新しい産物を運ぶ、中型、小型の廻船が活躍し福岡藩では商船(あきないぶね)と呼ばれました。このため若松、芦屋(あしや)、津屋崎(つやざき)などの玄界灘沿岸の多くの港の繁栄は続きました。
新しい海の道と洋式の船たち
18世紀後半から19世紀前半は、海と船の新しい時代の幕開けで、長崎や玄海灘には、ロシアやイギリスの船が出没(しゅつぼつ)し新たな事態となりました。福岡藩では蘭学の中でも地理学(ちりがく)が学ばれ、藩士永井則(ながいそく)らが、最新の海洋と大陸地図を製作しました。また明石行憲(あかしゆきのり)も玄界灘沿岸の海防や長崎警備の強化などを唱えました。しかし、嘉永(かえい)6(1853)年のアメリカ・ペリーの浦賀来航の年、長崎にはロシア使節(しせつ)・プチャーチンが来航し幕府と交渉しましたが、福岡藩はまだ江戸時代のままの水軍で警備していました。そこで11代藩主黒田長溥が西洋軍事技術の導入をはかり、洋式帆船(ようしきはんせん)や蒸気船(じょうきせん)を購入しました。それらの船は藩主を乗せて筑前と上方を往復し、明治初年の戊辰戦争(ぼしんせんそう)では兵員や物資輸送に活躍ました。現在もその軍艦の姿は、現在も絵や写真で見ることができます。
(又野 誠)