没後400年 黒田長政
令和5年7月19日(水)~9月10日(日)
◆黒田家の当主となる(22歳)
天正15年(1587)6月、豊臣秀吉の九州国分(くにわけ)により、父孝高が豊前(ぶぜん)国8郡のうち6郡を与えられ、翌16年、中津(なかつ)城(大分県中津市)を築きます。新たに九州の大名となった黒田家は、当初、領内の領主の反発を受け統治に苦慮しました。長政は自ら出陣し鎮圧に努め、城井鎮房(きいしげふさ)を中津城で誘殺します。この時、長政が用いた刀が名物「城井兼光(きいかねみつ)」(史料7)です。同17年には孝高の譲りを受け、黒田家の当主となり、甲斐守(かいのかみ)を名乗ります。
◆朝鮮に出兵(25歳)
文禄元年(1592)から始まる文禄・慶長の役では、黒田家の軍勢5千人を率いて朝鮮に渡海します。当時、長政は水牛(すいぎゅう)の兜(かぶと)(図2)を愛用し、河中での戦闘ではその角先(つのさき)が見え隠れして目印(めじるし)になったと、長政の奮戦ぶりが伝えられています。
◆関ヶ原の戦いで大活躍(33歳)
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、徳川家康(とくがわいえやす)の天下取りに大きく貢献します。6月、出陣する直前に家康の養女栄姫(えいひめ)(家康の姪(めい)、保科正直(ほしなまさなお)娘、忠之(ただゆき)母)を娶(めと)り、家康と強い絆を結びます。本戦では西軍の主力であった石田三成(いしだみつなり)の軍勢を撃破しますが、合戦前には、西軍の大将に担がれた毛利輝元(てるもと)の従弟吉川広家(きっかわひろいえ)に通じ、毛利軍の動きを封じます。また、当時、名島(なじま)(福岡市東区)城主であった小早川秀秋(こばやかわひであき)には東軍への寝返りを促す等、調略でも活躍しました。合戦終了後には、福島正則(ふくしままさのり)とともに毛利軍を大坂(おおさか)城から退去させ、大坂城を接収します。家康に勝利をもたらした長政は、この多大な活躍によって筑前の大半を与えられ、江戸時代260年余続く福岡藩の初代藩主となりました。
長政が死の2日前に残した遺言状(ゆいごんじょう)(図4)では、関ヶ原の戦いにおける黒田家の功績を重臣の栗山利章(くりやまとしあき)・小河正直(おごうまさなお)に詳しく語り聞かせます。関ヶ原の戦いで家康が勝利し、天下人になれたことは父如水(孝高)と自身の活躍によるものだと明言しています。関ヶ原合戦で東軍を勝利に導いたという自負心を人生最期に吐露し、後事を託しました。
◆父を慕い、子を案ずる
長政が晩年嗣子忠之に宛てた手紙(史料16)では、父如水に対する思いが垣間見えます。「如水のよき事を似せ申さるる儀は成り難く候べし。あしき事を似せざる様に心持ち有るべく候」と、如水の優れた点をまねようとしても難しい、悪い点をしないようにすることが肝要だと若い忠之に諭し、父への評価と、息子の行く末を案ずる長政の人柄が偲(しの)ばれます。
(堀本一繁)