斧(おの)と鍬(くわ)
令和5年8月17日(木)~11月5日(日)
はじめに
2021年に「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界遺産に登録されました。縄文遺跡群世界遺産事務局の公式ホームページによると、世界遺産に登録された遺跡群は「定住の開始からその後の発展、最終的な成熟に至るまでの、集落の定住の在り方と土地利用の顕著な見本である」として評価されました。
定住が始まった縄文時代は、一方では土地改変の始まりでもありました。人々は住居を作るために斧(おの)を使って樹木を伐り、鍬(くわ)や鋤(すき)を使って地面を掘りました。弥生時代に水稲耕作が始まると、低い土地を平らにして田んぼをつくり、溝を掘って川から水を引き込むことも行われました。
この展覧会は、土地開発の主要な道具である斧と鍬や鋤について、縄文時代から弥生時代の資料で構成しました。これらの道具は、縄文時代が始まる前の旧石器時代にはごくわずかしかない、人々の定住を象徴する遺物のひとつと言えます。これらを、その時代を代表する遺物とあわせて展示し、「土地開発」という側面から縄文時代から弥生時代を見てみたいと思います。
1 定住の始まり(草創期・早期)
縄文時代は、1万5千年前頃(放射性炭素測定年代)に始まります。この頃は、約2万年前に最寒冷期を迎えた最終氷河期(今より平均気温が6℃以上低い)から次第に暖かくなっていく時期でした。福岡でもっとも古い時代の集落が、福岡市西区大原(おおばる)D遺跡で見つかっています。同遺跡では1万2千年前頃の竪穴住居が数軒発見されました。この頃は再び少し寒くなった頃で、現在より5℃ほど寒かったと考えられています。住居は、南向きの緩やかな斜面を削って平坦面を造り、そこに建てています。住居跡からは大量の石鏃や土器の破片とともに、木を切るための石斧や地面を掘るための石鍬が出土しました。しかしこれらの量は多くなく、集落の規模も小さいことから、長期間に及ぶ定住ではなかったと考えられます。
当時は寒冷であったため海水面は今より40m以上低く、海岸線はずいぶん遠くにありました。そのため、この遺跡は現在は大原海水浴場近くに位置していますが、当時はやや内陸部の小高い丘の斜面上にあり、今とはずいぶん違った景色が見えていました。南区柏原(かしわら)遺跡や早良(さわら)区松木田(まつきだ)遺跡、西区元岡(もとおか)・桑原(くわばら)遺跡群などでは、約8千年前〜1万年前の遺跡が見つかっています。この時期も、まだ今より平均気温が数℃低かったと考えられます。大原D遺跡に比べ、石器の種類は増えましたが、石斧や石鍬の量はあまり多くなく、生活スタイルは大きくは変わっていません。
2 縄文海進と定住(前期・中期)
しだいに上昇した気温は、今から5千年前頃にピークを迎え、現在よりも2〜3℃ほど暖かくなりました。海岸線は内陸部へと移動し(縄文海進)、海と山の距離が近くなりました。食用として採取した貝の殻を捨てた貝塚は大きく(貝殻の量が多く)なり、出土する石斧の量が増加したことからも、より長い期間の定住が行われていたと考えられます。
福岡市内でこの頃の竪穴住居跡は発見されていませんが、南区中村町(なかむらまち)遺跡では、縄文時代前期〜中期頃の小川の中から100点以上の石斧が出土しています。比較的長期に渡る定住が行われたか、何度も訪れる価値のある土地であったことがわかります。
中村町遺跡で出土した石斧の内、42点が玄武岩(げんぶがん)で作られたものでした。西区今山(いまやま)遺跡第8次調査では、縄文時代前期から後期初め頃に、玄武岩を素材とした石斧の製作場が見つかりました。中村町遺跡で出土した玄武岩製の石斧は今山遺跡で製作された可能性が高いと考えられます。