斧(おの)と鍬(くわ)
令和5年8月17日(木)~11月5日(日)
3 寒冷化と農耕の始まり
5千年前頃を過ぎると、再びが寒冷化していきます。縄文時代の終わり頃は現在より気温が数度低く、縄文海進期に比べると5℃ほど下がりました。海水面も現在より2〜3mほど低い水準です。
気温と海水面の低下は、縄文人にとって大きな生活様式の変化をもたらしたと考えられます。縄文時代後期(4500年前頃)の早良区四箇(しか)遺跡では、石斧が多く出土するとともに、石鍬も増加しています。何らかの理由で木を多く伐採し、地面を掘削することが多くなったのでしょう。
縄文時代が終わろうとする晩期中頃(3500年前頃)、大原D遺跡からは200本を越す大量の石鍬や、植物を収穫する打製石包丁らしき石器が出土しています。同遺跡内で確認された、斜面一面に広がる炭化物の層は、焼畑の跡である可能性も指摘されており、何らかの農耕が行われた可能性が高いと考えられています。
4 水稲耕作と低地開発
2800年前〜3000年前頃、朝鮮半島から水田での米作り(水稲耕作)が伝わりました。水稲耕作は、樹木を伐採して水田を作り、そこに水を入れるため、河川の流れを制御するなど、縄文時代に比べて、自然を広く改変することになりました。西区橋本(はしもと)一丁田(いっちょうだ)遺跡では弥生時代初め頃の川と、その水を制御するための水利施設が見つかりました。
弥生時代になると石斧が大型化し(太型(ふとがた)蛤刃(はまぐりば)石斧)、今山遺跡では大量の石斧が作られました。最盛期を迎えた弥生時代中期初め(紀元前3世紀頃)には、数万本の石斧が製作された可能性があります。今山で作られた石斧は、北部九州一円に流通しました。
5 金属器の導入と都市開発
弥生時代中期中頃(紀元前2世紀頃)今山での石斧製作が終わりを迎えました。鉄製品が広く流通するようになったためだと考えられます。この頃は日本列島に「クニ」が成立する時期でもあり、福岡にあった「奴(な)国」「伊都(いと)国」の領域では、青銅製鋤先・鉄製鋤先・鉄斧などが多く出土しています。奴国の都市であった比恵(ひえ)・那珂(なか)遺跡群では、弥生時代の終わりまでに道路が整備され、台地全体に住居が広がり、「都市開発」の始まりの姿を見ることができます。
おわりに
縄文時代以来使い続けられてきた斧・鍬は、戦後、チェーンソーやショベルカーなどに取って変わられつつあり、普段はあまり見る事がなくなってきました。
一方、弥生時代以来の景観であった水田を有する「里」の景観も、人口減少などにより、崩壊の危機に立っている地域もあります。今後、人口が大きく減っていく中で、考えなければならないことは多くありそうです。
(米倉秀紀)